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3926-3929:フローニンゲンからの便り 2019年3月7日(木)


タイトル一覧

3926. 今朝方の夢

3927. 生活への旅の流入:オランダでの生活について

3928. 呪縛の証としての才能

3929. オランダの医療:不本意な現実と変容

3926. 今朝方の夢

今朝は小雨が降り注いでいる。通りを走る車が水しぶきを上げているのが聞こえ、その音が止むと、小鳥の鳴き声が近くから聞こえてくる。

今日も静かな一日がやってきて、それが今ゆっくりと動き始めている。書斎の窓から外を眺めると、通りの街路樹に新緑の色合いを見て取ることができる。

先々週までは春のような暖かさを持っていたフローニンゲンであるが、今週はまた冬に戻ってしまったかのような気温だ。春に向けて準備をし始めていた生命たちは、ここでまたその準備をひと休憩させることになるだろう。

いつものように、今朝方の夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、実際に通っていた中学校にいた。私は、校庭で行なわれているリレー競技を観戦していた。

見ると、競技に参加している人たちは全員外国人であり、彼らの言葉に耳を傾けてみると、どうやらほぼ全員がアメリカ人のようだった。なぜか私はトラックの近くに歩み寄っていき、一つのチームの応援をそこですることになった。

リレーに出場している選手たちは、全員が大人であり、年齢は20代の前半から80歳近くの人までがいて、幅広い年齢の人たちが混合する形で一つのチームをなしていた。ちょうど私が応援しているチームの選手の一人が私のすぐそばにいて、これから走ろうとしていた。

彼女はまだ20歳かそこらの風貌を持っており、なにやらアメリカ史上最も足の速い白人選手のようだった。彼女の見た目はアスリートのようではなく、どちらかというと歌手か女優のような風貌であったため、私はその事実を意外に思っていた。

60歳ぐらいのアメリカ人男性の選手が彼女にバトンを渡し、彼女はそこから一気に加速した。確かに、アメリカ史上最も速いと言われることだけあって、その速度は極めて早かった。

だが、走っている最中の表情を見る限りでは、思った走りができていないことが伝わってきた。それでもなんとか、次に待ち構えている70歳ぐらいの男性にバトンを渡した。

私は、走り終えた彼女に声をかけてみた。すると、やはり思った通りに走ることができなかったらしく、悔しさを表す言葉をいくつか聞いた。

そこで夢の場面が少し変わったが、私はまだ中学校にいたままであった。今度は、体育館で入学式があり、その後、オリエンテーションがあるようだった。

そこは確かに私が通っていた日本の中学校なのだが、そこではアメリカの大学の入学式が行われることになっていた。私はその大学に入学するわけではなかったので、入学式に参加することなく、校内をぶらぶらしていた。

すると、校舎の各教室では、オリエンテーションが終わった後に行われるクラブ活動の勧誘に向けて準備を着々と進めているようだった。私が二階のある教室の前を通りかかろうとした時、背の高いオランダ人の中年女性に声をかけられた。

彼女は笑顔で、「合気道クラブに入りませんか?」と英語で私に話しかけてきた。久しぶりに合気道をするのもいいかもしれないと思ったが、合気道をする時間的な余裕が今の生活にはないと思ったため、彼女の申し出を丁重に断った。

そこから私は、階段を上って三階に行き、美術室を覗いてみようと思った。するとそこは薄暗く、人が誰もいなかった。

窓に取り付けられた黒いカーテンはほぼ閉められており、少しばかり開いた隙間から光が差し込んでいた。美術室に置かれている数台のパソコンにおもむろに近づいていくと、突然パソコンから音楽が流れ始めた。

それはクラシック音楽のように思えたが、それが何の曲かはわからなかった。そこで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2019/3/7(木)07:59

No.1739: Rainy Groningen

Everyday is the same as the transitional and transient weather.

So our inner world and our life are. If so, this reality is truly transitional and transient. Groningen, 17:30, Thursday, 3/7/2019

3927. 生活への旅の流入:オランダでの生活について

早朝より降り続けている小雨を見ながら、パリ郊外の風景をふと思い出している自分がいた。パリの旅行から戻ってきて数日が経とうとしている。

パリの旅行を通じて、また一歩自分の人生が前に進み始めたのを感じる。それに合わせて、パリから戻ってきた今、自分の中の感覚の変容と、人生に対する意味づけの変容を見て取ることができる。

このようにして私は、今後も欧州での生活を続けていくのだろう。この夏からアメリカでもスイスでもなく、オランダに残る選択肢を選んだことに伴って、欧州永住権を取得しようと思う。

仮にデン・ハーグに引っ越せば、そこから三年間か五年間は同じ場所で生活をするだろう。そこからのことは全くわからないが、もしかするとデン・ハーグに継続して留まり、市内で引越しをすることがあるかもしれないが、オランダで長く生活をしていくような予感がしている。

オランダに捕まってしまったというよりも、オランダに抱擁してもらっているという感覚が強くある。ここからオランダで長く生活をすることにしたことに伴って、欧州内でまだ訪れたことのない国や地域に積極的に旅に出かけていきたいと思う。

もちろん、仕事との兼ね合いもあるが、今の仕事をする上では自分がどこにいるかはさほど関係なく、旅先のホテルの中でも仕事を進めることは不可能ではない。これまで旅に出かける時は、基本的にオンラインミーティングなどが入っていない時期を選んでいたが、もしかすると今後は、そうしたミーティングが入っていたとしても旅に出かけていくことは十分可能なのではないかと思う。

欧州での生活が始まって以降、仕事と私生活の境目が溶解し、一つの落ちついた流れのような生活となった。そうしたことを考えると、これからは旅というものをそうした生活の溶かし込んでいくことも十分に可能なのではないかと思い始めている。

オランダでの四年目の生活においては、このあたりのことを視野に入れながら、旅の非日常性を大切にしながらも、それを日々の生活の中にうまく融合させていく道を探ってみようと思う。

雨脚が少し強くなり、窓に付着する雨滴の量が増えた。

私はオランダにやってくる前は、フローニンゲン大学の一年間の修士課程を終えたらオランダを離れる計画を立てていた。しかしフローニンゲンでの生活、およびフローニンゲン大学で探究生活を始めてみると、この場所で学べることが実に豊かであることに気づき、もう一年残ることにした。

すると今度の二年目においても、同様のことを実感し、結局私はフローニンゲンで三年の時を過ごすことになった。もちろん、フローニンゲンでの生活の充実ぶりを考えると、この地に留まっていたいという気持ちが起こるが、同時に、新たな地で生活をする必要性を強く感じ始めているというのが実情だ。

ただし、オランダという国が自分の感覚と適合しており、さらには自分の感覚を深く涵養することに寄与してくれていることを考えると、この国から離れることは賢明ではない。そうしたことから、アムステルダムやロッテルダムなどを調べながらも、結局自分が最も落ち着けそうなのはデン・ハーグであると直感的に思った。

昨日の昼食後に、アムステルダムに住む日本人の知人の方とオンラインで話をさせていただき、ちょうどその方はデン・ハーグに住んでいたこともあって、この街についてあれこれと話を聞いてみた。すると、流行や刺激を求めず、とにかく静かで落ち着いた生活環境を欲する私にとっては、アムステルダムよりもデン・ハーグが生活地に適していると改めて思った。

ちょうど私が目をつけていた物件の周辺は、とても落ち着いた環境であるそうなので、その物件に居住することが決まれば幸いである。今日あたりに、先日送ったメールに対して、不動産屋からの返信が届いていることを願う。フローニンゲン:2019/3/7(木)08:24

3928. 呪縛の証としての才能

外は相変わらず雨が降っている。この人生が、「いかなる時も汝であれ」と語りかけているように思える。

ここ最近は再び天候が冬に逆戻りした。昨年のこの時期に書いていた日記の通りの天候である。

そうした変動の激しい天候にあって、自分の内側も少しばかり揺れが起こっているようだ。人間の発達において伴うのが、揺りかごの優しい揺れだけではないことは幾分残酷である。

またしても小さな揺れを経験せざるをえなくなった自己。そんな自己に同情したくなる気分であるし、慰めの言葉をかけてあげたい気分であるが、如何ともしがたい。

そうした揺れの中を自己自らが歩んでもらうしか方法はなく、むしろ自己はそこに留まりながら、揺れの方が自発的にどこかに向かって動き出すのを待つしかないのかもしれないという気持ちになってくる。

新緑の色を見せはじめた街路樹が、雨風に揺られている。

パリに滞在している時に、郊外に出かけ、その時にぼんやりと考えていたことがある。それは、真の才能とは呪縛の証であり、真に自分の才能を発揮してこの世界で生きるというのは、そうした呪縛を引き受けることであり、それを宿命というのかもしれない、というものだった。

確かに私たち一人一人には固有の才能があり、それを育むことは大切だが、才能を発見し、それを発揮しながら生きるということの宿命性に踏み込んだ議論というものをほとんど見聞きしない。

パリの旅行中に、国立ピカソ美術館、ラヴェル博物館、ドビュッシー博物館を訪れながら、こんなことを考えていた。「人とは違う自己の才能に気付き、それを最大限に発揮した人の中で、真に幸福な人生を送っていた人などいないのではないか」というものだ。

自分の中にある真の才能に気付き、それをこの世界で最大限に発揮することが、その個人の幸福につながるとは限らないこと、いや往々にして、その個人から幸福を奪いかねないことは実に皮肉なことではないだろうか。

おそらく、真に自分の才能に目覚め、それを発揮しながらでも幸福感を得ることは可能である。そうであって欲しいと思う。

だが残念ながら、これまでの人類の歴史においては、そのような社会環境であったことはないであろうし、現代社会においてもそのような環境はないのではないかと思ってしまう。現代においては、才能というものが結局のところ、物質経済的なものに搾取されてしまい、才能を発揮することによって獲得されたように思える幸福というのは往々にして、そうした物質経済的なものにまみれてしまっている。

そして、そうした見せかけの幸福感を感じれば感じるほど、それを増幅させればさせるほど、その個人の人生は破滅の道に向かっていく。そのような姿が見える。

私がフローニンゲン大学で最初の年に取得した修士号は、「タレントディベロップメントと創造性」に関するものであったが、才能を開花させることに伴う諸問題について何ら議論がされていなかったように思う。

フローニンゲン大学の同プログラムは、当該分野において実に体系立ったカリキュラムを持っていたが、結局のところ、現代のいかなる大学機関も、この現代社会を覆う目には見えない巨大なイデオロギーに多大な影響を受けており、自分が真に大切だと思うことまで踏み込んで議論がなされることはほとんどないのではないかと思えてくる。私が学術機関にできるだけ所属しないようにしているのはそうした理由によるところが大きく、これからもその姿勢は基本的に変わらないだろう。

再び才能の話題について考えている。私の関心領域の観点でいえば、どうしても作曲家や画家の顔が思い浮かぶが、偉大な才能を持った人たちの大半が、激しい人生を送り、恵まれた環境に置かれていたわけでは決してなかったことについて考えてしまう。

恵まれなかった環境の中で自己の才能を開花させ、才能が開花されたとしても、人生を幸福なものとして送れなかった過去の偉人たちの生き様を見ていると、この社会の中で才能を開花させることについて、どうしても慎重に考えざるをえない。

この現代社会においては、才能すらも商品化されてしまい、それによって多くの個人が悲劇的な人生を送ることを余儀なくされているように思う。このような社会の中で、いかにして私たちは自分の才能を開花させ、それを発揮していけばいいのだろうか。フローニンゲン:2019/3/7(木)10:13

No.1740: The Ancient Blue Sky

The clouds that I was seeing in the early morning were gone, and the sky became blue.

How peaceful the view is! Groningen, 10:20, Friday, 3/8/2019

3929. オランダの医療:不本意な現実と変容

つい先ほど散歩から帰ってきた。今日は早朝に雨が降っており、午後からは晴れ間が見え始めた。

晴れ間が顔を覗かせている時に散歩に出かけたのだが、途中から激しい天気雨が降ってきた。すぐさまスポーツウェアのフードをかぶって雨をしのぎながら散歩を続けた。

しばらく歩いていると雨が止み、街の方を眺めると、そこに虹ができていた。久しぶりに虹を眺め、改めて自然の生み出すこの神秘的な現象について思いを馳せていた。

帰り際にもまた天気雨が降り始め、自宅に戻ってきた今は雨が止んでいる。最近は変動の激しい不安定な天気が続いている。

昨日にかかりつけの美容師のメルヴィンに髪を切ってもらったことについて日記に書き留めたいように思う。これからオランダで長く生活することに伴って、前々から気になっていたオランダの医療について話を聞いていた。

オランダでは、緊急の時以外は、基本的に病院を訪れても診察をしてもらえない。オランダはホームドクター制を採用しており、かかりつけの医者の紹介状がなければ大きな病院で診察や治療をしてもらうことができないことになっているそうだ。

最初私は、これは不便な制度だと思ったが、下手に病気をすることができないという、ほど良い緊張感が無意識的にもたらされ、またメルヴィンが述べるように、下手に薬に頼るよりも、たいていの病気を自然治癒で治していく力をつけていく上でも、自分にとってはそれほど悪くない制度のように思えた。

私たちの体は不確実性を絶えず持っており、いくら健康な生活を送っていても何が起こるかわからないというのが実情だろう。外から不可抗力的に侵入してくる病気に対してはどうしようも無いが、人間の病の要因のうち、最も重大なものであろう心理的な要因については、今の生活を継続することができていればそれほど心配は無いように思われる。

オランダでの生活を通じて、人付き合いによる消耗は全くなく、人間関係がもたらすストレスが無いことは、心身が健康である現在の状態を生み出してる最大の要因だと思う。

オランダの医療について話をした後に、メルヴィンの店の開店を記念して贈呈した品について話が移った。その品は、飛鳥時代に起源を持つものであり、メルヴィンから飛鳥時代について尋ねられた。

それが日本の歴史上、どのような意味を持つ時代だったのか、当時の首都はどこにあったのかなどについて質問を受けた。昔学んだ日本史の知識を引っ張り出しながら、メルヴィンの質問に答え、後ほどその回答に誤りがないかを確認したところ、基礎的な情報に誤りはなかった。次回メルヴィンに髪を切ってもらう際には、今度は別の観点でオランダについて話を聞いてみたいと思う。

雨雲とそうではない雲が混じった形で空に浮かんでいる。遠くの空には青空が広がっていて、今また通り雨が降り始めた。

この現実世界の中を生きていくに際して、未来は本当にわからないものなのだと改めて思う。何か未来に望みを持つというのは、もしかすると、現在の生をあるがままに受け入れることができず、それを間接的に否定していることの表れなのではないかと思ってしまう。

私たちは、常に未来に対して何かしらの望みを持ちたがるが、そうした衝動を手放し、真に今に生きることができればより心穏やかな日々を送ることができるのではないかと思う。そして仮に、何か不本意なことが現実に起こったとしても、それが私たちの人生を深めてくれることは十分に考えられうる。

不本意な現実というのも、もしかすると、私たちが今という瞬間を肯定することができず、未来に生きようとすることから生まれてくるのかもしれない。今すぐに未来に生きることが難しければ、それを徐々に手放していけばいい。

その過程において、不本意な現実を幾度となく突きつけられるだろうが、それは私たちの変容を招き得るのだ。再び雨が止み、夕日を眺めながらそのようなことを考える。フローニンゲン:2019/3/7(木)16:55

No.1741: Eternal Geniality

It is approaching 3PM.

I’ll read Kafu Nagai’s diaries and then go for a walk. Groningen, 14:53, Friday, 3/8/2019

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