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3917-3921:フローニンゲンからの便り 2019年3月5日(火)


タイトル一覧

3917. パリから戻ってきた夜の夢

3918. 新たな人生:食生活の見直し

3919. 喪失感と人間発達

3920. 岐路

3921. 今自己に起きていること

3917. パリから戻ってきた夜の夢

パリ旅行からフローニンゲンに戻ってきて一夜が明けた。昨日は、夕方にフローニンゲンに戻ってきてみると、パリよりも寒く、冬へ逆戻りしてしまったかのように感じた。

自宅に戻る途中で、行きつけのチーズ屋に立ち寄って店主と話をすると、先週までの暖かさは異常であり、再び通常の寒さに戻ったとのことであった。フローニンゲンに戻ってきて実感したことは、まずは寒さであったが、それ以外に実感したことは、やはりこの街の落ち着きである。

昨夜、早速二曲ほど曲を作っている最中に、外の世界の静かさを実感していた。また、就寝のためにベッドで仰向けになった瞬間にも、大いなる静かさを感じた。

直近数日間でパリの中心部に滞在していた時には感じられなかった静けさを感じることができた。やはり私は、こうした静かさの中で落ち着いた生活をすることが性に合っているようだ。ここからまた、デン・ハーグに引っ越すまでフローニンゲンで静かな生活を送りたい。

パリから戻ってきて最初の夜に印象的な夢を見た。夢の中で私は、実際に通っていた小学校の校舎の中にいた。

そこは高学年用の校舎であり、私は三階の教室にいた。授業に参加していたわけではなく、授業参観のような形でそこにいた。

すると、中庭の方から子供たちの元気の良い声が聞こえてきた。その声に続けて、小中学校時代の友人(YK)の声が聞こえてきた。どうやら彼は今、教育実習を母校で行っているようだった。

友人の懐かしい声が聞こえてきたので、私は彼がいる中庭に降りていこうとした。すると、他の教室の教師の男性が、「うるさい!」と中庭の子供たちに怒鳴り声を上げた。

確かに、他の教室では授業が行われており、中庭で行なわれている課外授業に参加している子供たちの声は元気が良かったが、単純にうるさいと述べてしまって、子供たちの活動エネルギーを抑圧してしまうのは教育上どうかと思った。エネルギーを発散するべき場所ではエネルギーを発散することの方が、それを抑圧してしまうよりもずっと健全だと私は思っていた。

中庭に降りてみると、多くの子供たちが元気いっぱいに交流をしていた。友人は私の存在にすぐに気付き、話しかけてきた。

何の授業をしているのか私も気になったので、彼に質問をしてみることにした。すると、野球をしながらある科目の内容を教えるという非常にユニークな授業だった。

先ほど、他の教師が「うるさい!」と怒鳴っていたが、それを気にする必要などない、と私は彼に伝えた。昔から、彼は私と同じような考え方を持っており、子供を育てる方針に関しても似た考えを持っていることが改めてわかった。すると彼の方から一つ提案があった。

友人:「来週の授業の時に、ゲスト講師として授業を受け持ってくれない?」

:「自分でよければぜひ。それは何の授業?」

友人:「算数と作曲をお願いしたいんだ」

友人のその提案を聞いた時、以前小学生に算数を教えていた経験があるため、算数なら問題ないと思ったが、作曲を子供たちに教えたことなどなかったため、その点については懸念があった。とはいえ、作曲を子供たちに教えるのは面白そうだと思い、彼の提案を引き受けることにした。

中庭から再び三階の教室に向けて階段を上っている時に、どうやって作曲を教えるかを頭の中で考えていた。すると脳裏に鍵盤が浮かび上がり、簡単なメロディーを作る方法に関して模擬レクチャーのようなことを自分で行っていた。

また、「和音」という概念をいかに伝えるかに関して、「好きな人と一緒にいると楽しいよね」という比喩を用いながら説明する案が良さそうだと考えていた。フローニンゲン:2019/3/5(火)09:03

No.1733: A Perplexing Garden

This reality might be a perplexing garden.

It seems to me that people are just allowed to live there. Groningen, 21:20, Tuesday, 3/5/2019

3918. 新たな人生:食生活の見直し

パリから戻ってきての初日がゆっくりと進んで行く。今日は午後から、かかりつけの美容師のメルヴィンに髪を切ってもらう。

早ければ五月からハーグに引っ越しをするかもしれず、それを考えると、メルヴィンに髪を切ってもらえるのは後わずかなのかもしれないと思う。ハーグへの引っ越しが正式に決まり次第、メルヴィンにはすぐに連絡をしようと思う。

今日のフローニンゲンの最高気温は10度であり、最低気温は4度である。今週末からは最高気温と最低気温ともにさらに気温が下がるようだ。

午前中にふと、人生はいつからでも新たなものとして生きられるのではないだろうかということを考えていた。人生は常に新たな出発の連続であり、それを考えると、今日今この瞬間から人生を新たなものとして生きることは十分に可能だろう。

人生に新たな意味を付与することができた瞬間に、新たな人生が始まる。デン・ハーグでの生活を正式に始めることになれば、そこから私はまた、新たな人生を送ることになるだろう。

確かに今回も引っ越しをすることになるが、デン・ハーグではできるだけ長く生活をしたいと思う。ここ最近、そろそろどこかに落ち着いて生活を営んでもいいのではないかと思い始めている。

以前の日記で述べたように、確かに私の魂には遍歴性があるが、ここあたりで幾分落ち着く必要があることを魂も感じているようなのだ。

デン・ハーグでは、フローニンゲンでの落ち着いた生活以上に平穏な生活を送れるような気がしている。そこには平穏さと共に、探究活動と創造活動に従事する熱気があるはずだ。

私は学術機関に所属して研究を続けることのできる人間ではなく、これからも在野の研究者として活動を続けていこうと思う。研究に関しては緩やかに継続させていき、創造的狂気に関しては一気にそれを解放させたいと思う。

数日前にパリの駅で見たあのアフリカ系フランス人音楽家のように、人々の人生に彩りを添える音楽を創出したいと思う。私は決して職業作曲家ではなく、今後も日曜作曲家として曲を作っていくことになるだろう。

決して大作など作る必要はない。簡素な曲を通じても、いや簡素であるからこそ、人々の人生にそっと彩りを添えることができるのではないか。窓から見える白い雲を眺めながら、そのようなことを考える。

デン・ハーグに引っ越しをしてしばらくは、毎日一時間ぐらい、あれこれとデン・ハーグの街を散策したいと思う。毎回違うルートで散歩をし、デン・ハーグの街をよく知りたいと思う。

昨日よりパリから戻ってきたことに伴って、食生活の見直しをし始めた。手荒れのせいもあり、ここ数ヶ月は自炊をすることを控えていたが、昨日から料理を作ることを再開した。

とりわけ現在注目しているのは地中海料理である。豚肉や牛肉を食べることは極力控え、魚をメインにした食事を続けていこうと思う。

昨日から、これまで以上に果物や野菜を摂るようにし、乳製品を控えながら、パスタを食べる食事に切り替えた。パリの旅行中に乳製品を控え、魚を中心に偏りなく様々なものを食べるようにしていると、手荒れが回復し始めたことをもって、これまでの食事のあり方を真剣に見直すことにした。

これまでチーズを毎日食べ、ヨーグルトを毎日飲んでいたのだが、乳製品を取り過ぎていた可能性があることにようやく気付き、昨日よりこれまで以上に食に気をつけるようにし始めた。食は心身に大きな影響を与えることを考えると、食についても研究を始めたいという思いが湧いている。フローニンゲン:2019/3/5(火)11:21

No.1734: A Transitional Sound

The third day since I came back from Paris has begun.

Looking at street trees, I noticed that they turned fresh green slightly. Groningen, 09:31, Wednesday, 3/6/2019

3919. 喪失感と人間発達

昨日の天気予報とは異なり、今日は晴天に恵まれている。確かに白い雲の塊が空に浮かんでいるのが見えるが、それは不気味な雨雲ではない。太陽の光がフローニンゲンを優しく包んでいる。

昨日までのパリ旅行の最中に、いろいろと雑多なことを考えていた。それらは全てメモ書きとして残しているだけであり、文章の形となっていない。それらを少しずつ文章の形にしていくことが、旅から戻ってきてまず着手したい事柄である。

先ほどの日記で書き留めていたように、私たちはどのような瞬間からでも、人生に新たな意味を付与することができる。ロシアの発達心理学者ヴィゴツキーの考え方を採用すれば、意味とは参照されるものであり、それは個人の感覚から生まれる文脈によって生起するものである。

人生の意味を再構築するためには、自分の内側の感覚そのものを再構築することが求められることがわかる。それでは、感覚の再構築はどのようにして起こるのだろうか?

おそらくそれは、人為的には成し得ないのではないかと思う。感覚そのものを変容させるためには、自己そのものの変容が要求される。それは長大な時間をかけて緩やかに実現されていくものだ。

そのようなことを考えると、感覚の変容には時間がかかり、そうであれば、意味を再構築することにも必然的に長大な時間を要するかのように見える。確かに、感覚をマクロに変容させていくには長大な時間がかかるが、ミクロな変容であれば、それは絶えずいかなる瞬間においても行なわれている。

そうしたミクロな変容に意識を当てること。そこに見出された感覚的な変化を元にして、人生の意味を新たに紡ぎ出していくこと。そうしたことを絶えず行っていきたい。

パリの旅行中にふと、これまで仮に日本に一時帰国する際には、年末年始がほとんどであったが、これからはもう少し季節の良い時期に戻ってもいいのではないかと考えていた。昨年の年末年始は日本に一時帰国することができなかっため、今年は季節の良い秋にでも二週間ほど日本に戻ろうかと思っている。

その際には、神保町にある音楽関連の古書店を巡りたいと思う。そこで音楽理論や作曲理論に関する日本語の専門書を購入したい。

パリを旅している中で、改めて死という現象について関心の矢が向かっていた。その主題に付随して、人はいかようにして喪失感を感じ、それをいかようにして乗り越えていくのかに関心が向かい始めた。

そのテーマについては、グリーフセラピーの理論が参考になるかもしれない。何かを喪失するというのは、大切な人を失うという体験のみならず、私たちの日常生活には形を変えて同種の体験が溢れている。

大きなライフイベントの類には、仮にそれが結婚や出産などの肯定的なものであったとしても、喪失感をもたらし得る何かしらの余地が含まれているように思う。今まさに私は、この三年間生活してきたフローニンゲンを離れ、新たな場所で生活を送ろうとしている。

フローニンゲンを離れるということそのものが、やはり私に大きな喪失感をもたらしている。この喪失感の正体と、それとどのように向き合っていくのか、そして喪失感を乗り越えた後の自己はいかように変貌を遂げるのかに大きな関心を寄せている。この主題はまさに人間発達と密接に関係したものである。フローニンゲン:2019/3/5(火)12:07

No.1735: A Swan on the Surface of a Lake

The sky looks like a lake above which a swan is flying. Groningen, 12:09, Wednesday, 3/6/2019

3920. 岐路

時刻は午後の四時半を迎えた。つい先ほど、フローニンゲンの中心街から戻ってきた。

今日は確かに気温が低かったが、天気に恵まれ、太陽の優しい光が一日を通して降り注いでいた。昼食を摂ってしばらくしてから、かかりつけの美容師のメルヴィンのところへ足を運んだ。今日もメルヴィンとの話に花が咲き、終始楽しい時間を過ごさせてもらった。

店に入ると、いつものように握手を交わし、ダブルエスプレッソを一杯ほどもらった。数ヶ月前にメルヴィンの店がオープンした時に祝いの品を持って行こうと思っていたのだが、毎回それを忘れており、今日それを渡すことができた。

それは、メルヴィンの店にこれからも善き人々が絶えずやってくることを願った品である。メルヴィンはそれを嬉しそうに受け取り、早速店内に飾ってくれた。

今日もいつもと同じように一時間ほどの時間を取ってもらい、ゆっくりと会話をしながら髪を切ってもらった。メルヴィンが以前働いていた店に最初に訪れたのは、今からもう三年前のことである。

その時には別の美容師に髪を切ってもらっていたのだが、彼が燃え尽き症候群になってしまい、その後に担当してもらった美容師は独立をし、そこからメルヴィンとの縁が生まれた。そうしたことを考えると、メルヴィンとの付き合いはかれこれ一年ほどになるだろうか。

私はフローニンゲンにやってきて、大学院で二年間ほど学術的な研究に従事していたが、そこでの学びよりも、メルヴィンとの会話から得られた学びの方が多いと確信している。今日の会話をもってして、それが完全な確信に変わった。

オランダでの三年間の中で、人生とは何か、生きるとは何か、人間がなす仕事とは何かについて、誰から一番学んだのかというと、それは間違いなくメルヴィンだろうと思う。そしておそらく、私が成人になって以降に生きている人間と会話したことの中で、メルヴィンとの会話以上に感化されるものはなかったように思う。

私に大きな影響を与えてくれたメルヴィンに髪を切ってもらうことも、残り少なくなってきている。今日は、デン・ハーグに引っ越しをすることについてメルヴィンに伝えた。

デン・ハーグに行ってからもぜひメルヴィンに髪を切ってもらいたいところだが、デン・ハーグからフローニンゲンまでは電車で片道三時間弱かかる。仮にデン・ハーグに引っ越しても、半年に一回か、一年に一回はメルヴィンに髪を切ってもらおうかと考えている。

本日のメルヴィンとの会話を改めて振り返っていると、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉を思い出す。私たちは、考えるために生まれてきたのではなく、関係を持つために生まれてきたのだ、というものだ。

先日までのパリの旅行中に、いかにこの社会の中で他者と関係を結びながら仕事をし、生きていくかということについて何度も考えさせられていた。ここ最近は、充実感や幸福感というものが、自分の内側に閉じこもる形で生まれるものではなく、他者とのつながりの感覚を通じて生まれるものに変化を遂げつつある。

以前であれば、日々の探究活動と創造活動そのものの中に充実感や幸福感を見出していたが、今はそうした活動の中に閉じない形でそれらの感覚が生み出されつつあることを感じる。今、私はこの人生において、他者との関係性の網の目の中で何を成していくかを再度考える岐路に立たされている。

人間は他者や社会と関係を持つために生まれきたということを起点に、これから自分にできることはどういったことなのか、自分は何をすることを引き受けて日々生かされているのかを改めて深く考える必要がある。今日のメルヴィンとの会話は、そのようなことを考えさせてくれるきっかけとなった。フローニンゲン:2019/3/5(火)17:04

No.1736: A Landscape of a Suburb of Paris

I was in a memory of a landscape of a suburb of Paris, when I noticed it. Groningen, 17:39, Wednesday, 3/6/2019

3921. 今自己に起きていること

時刻は午後八時半を迎えた。パリからフローニンゲンに戻ってきての初日が、今ゆっくりと終わりに向かっている。

この夏からの生活地の変更に伴い、幾分自分の心が動いているのを感じる。そこには自己を揺さぶる波がある。

生活地を変えることは、こうした自己への揺さぶりをもたらすことは予想できていたのだが、実際にそれが起こってみると、この現象と冷静に向き合う必要性を感じている。こうした一つ一つの体験を蔑ろにするのではなく、それと時間をかけて向き合うことをとにかく大切にしたい。

それを行う方法は、文章を書くことと曲を作ることしか自分にはない。上記において、今自分が体験していることを自己を揺さぶる現象だと形容したが、実際には幾分動揺しているのだと思う。

この八年間において、私は何度も生活拠点を変えてきたが、それはやはり自己に大きな負担を強いる体験だったことがわかる。確かにそれは、自己を涵養する上で極めて重要なものなのだが、自己を涵養させることそのものの意義を疑い、自己が発達してしまったことに伴う痛みや苦悩にどうしても意識が向かう。

正直なところ、今の私は、この人生をいかに生きていくのかに関して再考を迫られている。今後も探究活動と創造活動を継続していくことは間違いないが、これまで欧米での探究生活で培ってきた知見を、過去に全く関与してこなかった領域で役立てていくことはできないかと考え始めている。

こうした新たな挑戦に向かおうとしているのは、今の自分が生活地の変更に伴い、不安定な状態にあるからなのだろうか。それとも、発達空間において、これまでの地点から別の地点に大きく振り子を動かそうとしている健全な動きなのだろうか。はたまた、それらの両方なのだろうか。

自己をいかようにこの社会と関係づけていくか、自分の役割とは一体何であり、いかに日々を生きていくべきかに関して、深く大きな問いを突きつけられているように感じる。

こうした発達上の課題に合わせて、ライフサイクル上の課題も浮上してきていることに気づく。確かに現在の自分の年齢を考えると、永住の地を今決定する必要はないのかもしれないが、そうした地を真剣に探し始めている自分がいる。

自分の魂は依然として遍歴を続けている一方で、安住の地を探し始めているのを感じる。だが今の私はそれがどこなのか皆目見当がつかず、そこに一つの苦悩がある。

ある場所に永住することなど全く想像できない自分と、ある場所で安住することを求める相反する自分がいる。発達課題は、いつも対極性を孕む。

おそらく、物理的にどこかの地で安住するのかしないのかの背景には、精神的により重要な対極的な課題があるだろう。今はそれが何なのかが明確にはわからない。

人はその短い人生をどのような意味を携えていかに生きていくのだろうか。そのような問いが依然として付きまとう。

人生がまた混迷なものに思えてくる。人生そのものと人生の意味が混迷な最中、私の自己はこの世界に向かって開こうとしているのを今日も実感した。それは、かかりつけの美容師のメルヴィンとの対話によってもたらされたものである。

自己は本当にこの世界に対して開こうとしているのだ、そうした特性を人間の自己が持ち得ることは、理論上理解しているつもりであった。

だがそれが、実際に今この瞬間に自分の身に降りかかってくると、その体験が持つ重さに押しつぶされそうになってしまう。ここでも、自己を押しつぶし、再び自己を閉鎖的なものにしようとする運動と、自己を解放し、自己を外側に開いていこうとする運動の二つを見る。

人間の生涯にわたる変容過程は、楽になる方向に向かっていくわけでも、苦悩が単に深まる方向に向かっていくわけでもないことがわかる。解放への道と苦悩への道のどちらもが含まれている。

いや、人間の変容過程には、解放と苦悩を超えた何かがありそうだということがもう薄々と見え始めている。その輪郭をより鮮明なものにするために、現在の苦悩があるのだろうか。フローニンゲン:2019/3/5(火)20:49

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