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3877. 敬虔に生きること


時刻は午後の四時半を迎えた。今日は本当に、平穏かつ平和な日曜日である。その平穏さと平和さの中に溶け出してしまいそうな感覚がある。

つい先ほどまで、近所の河川敷に散歩に出かけていた。今日はいつもより距離を伸ばし、最初はランニングを軽く行い、それ以降は基本的にウォーキングを楽しんだ。

今日は日曜日ということもあり、いつも以上に柔らかな雰囲気に辺りが包まれていた。それはもちろん、今もまだ継続している。

サイクリングロードを歩きながら、春の戴冠式がもうしばらくしたら始まるという予感を改めて持った。春は本当にあと少しだ。

今日は昼食を摂っている最中に、食卓の窓から、自宅の目の前の空き地を眺めると、そこに紫色と黄色の美しい花が咲いていることを発見した。確か先週までは、それらを見ることができなかったため、ここ最近開花したのだと思う。新たに咲き誇る花々を見ていると、自然の運行を見て取ることができる。

昨年の今頃から、今日にかけて、自分はどのような変化を遂げてきたのだろうか。そうした問いを自然の運行は投げかけてくれる。おそらく、私もこの一年間で何かしらの変化を遂げたのだと思う。

それはとても小さなものかもしれないが、確かに自分の中で何かが変わったのだという実感はある。それが何かについては、今後より明らかになってくるだろう。

自然と自己の双方の変化を見落とさずに生きること。そうした変化に寄り添いながら日々を生きていくことが、敬虔に生きることなのかもしれない。

そうであれば、今日という日を敬虔に生きていたことになる。こうした日々をこれからも積み重ねていく。

そして、自分が生きた今日という一日を、言葉と音の形にしていく。それは、ある一人の固有の人間が確かに生きた証となる。

それ以上でも、それ以下でもない。生きた証を残すことが重要なのではなく、証を残すことによって確かに生きることが何よりも重要なのだろう。

生きた証というのは、真に生きたことによって生まれる産物にすぎない。それを忘れないようにする。

今、書斎の中では、スクリャービンのピアノ曲が流れている。やはり、スクリャービンのピアノ曲には惹きつけられるものがある。

昨日から改めて、スクリャービンのピアノ全集を聴いている。ここからしばらくはそれを聴き続けることになるかもしれない。

先ほど散歩をしている時に、全身のエネルギーの循環が良くなったためか、静寂な意識状態の最中にあって、いろいろと気づきが芽生えていた。それらについては、明確な言葉の形になるのをもう少し待っておこうと思う。

言葉、あるいは音になるための、温める時間を設けたい。こうした時間もまた、大切なゆとりの時間となる。

私たちの内面は、このようにして、熟成する時間的ゆとりを与えることによってゆっくりと成熟していく。フローニンゲン:2019/2/24(日)16:57

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