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3856. 内的必然性


時刻は午後の八時を迎えた。今日もまた穏やかな一日が幕を閉じようとしている。

つい先ほど、人間の想像力について思いを馳せていた。それは、私たちが想像できないような遥か彼方からやってきて、そして遥か彼方まで飛んでいく。

想像力の生まれる場所、そして向かう先は、本当に想像がつかない。それは想像力の秘密である。

今日は久しぶりに、ベートーヴェンに範を求めて一曲作った。まだベートーヴェンのピアノソナタには範を求めておらず、他の小作品を参考にして曲を作っている。

ベートーヴェンのみならず、私はまだ、他の作曲家が残したピアノソナタの傑作を参考にすることを控えている。それは将来に取ってあるという見方もできるし、同時に、自分の力量がまだそれを行う段階にないということも言える。

いずれせよ、ピアノソナタの無数の傑作が、まだ手付かずの状態で残っていることは大変喜ばしい。それらの作品一つ一つと向き合うことは、間違いなく自己を深めてくれるだろう。

今後数年、いや、数十年にわたって、ピアノソナタを含め、数多くの作曲家の傑作と向き合い、自分の曲を生み出していく。そうした創造活動の根幹にあるのは、兎にも角にも、内的必然性である。

それ以外のものは考えられない。それは作曲実践のみに当てはまることではなく、日々の日記の執筆にも当てはまる。

とにかく、外部からの誘惑も圧力も超越したところで、ただ内的必然性に従って日記と曲を書き続けていく。そうした創造活動に偽善的な目標はいらない。

ただ内的必然性に従って創造物を生み出していくこと。そして、その行為がもたらす喜びと幸福さと完全に合一して日々を過ごすこと。それをこれからも大切にする。

誘惑と圧力にまみれたこのような時代だからこそ、その営みに何らかの意義を見出すことができないだろうか。自分の内側の真実に従って生きるというのは、こうした自分固有の内的必然性に従って生きることを指すのだということが最近強く実感させられる。

この夏からフローニンゲンを離れ、新たな場所で生活をするようになれば、それもまた、内的必然性の促しなのだろう。創造活動のみならず、日常の全ての活動の根源に、自己の内的必然性を据えたい。

いや、今の私はもうそれに基づいて毎日を生きている。ひょっとすると、人生の最後にやってくる死という現象もまた、内的必然性によってもたらされるものなのかもしれない。

今日も私は、自分の内的必然性に基づいて生きていたと言える。明日もそのように生きることができるだろう。

自らの言葉と音を求めようとする衝動もまた、内的必然性の表れなのだと思う。

おそらく、内的必然性と魂は何らかの関係があるに違いない。内的必然性とは、魂の分泌液なのだろうか。そうかもしれない。フローニンゲン:2019/2/19(火)20:21

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