時刻は午後三時を迎えた。もうしばらくしたら、歯医者に行く準備をしたい。
今日は早朝に晴れ間が見えていたが、その後、薄い雲が空全体を包むようになった。昼食後から一時間半ほど、小雨が降っていたことも記憶に新しい。
午前中に作曲実践を行っていると、目の前に、水色の道が果てしなく伸びている感じがした。それに合わせて、冬の思い出が自然と思い出された。
それらの思い出、ないしは冬の時代の情景がもたらす感覚は、新たな自己を導いているかのようであった。様々な感覚が無数の記憶と結びつき、それらが遠くからやってくるかのような感覚がある一方で、それらが遠くへ伸びていくような感覚があった。
午前中より、ベートーヴェンのピアノソナタに関する解説書を読み進めている。もう少しで全体が読み終わる。おそらく、歯医者から帰ってきた後に全てを読み終えることになるだろう。
改めて、一つの曲を深く理解しようとすることは、内面の深まりを促すことであると理解する。これは音楽作品のみならず、他の芸術領域における作品に対しても当てはまることだろう。
いや、それは芸術に留まらず、このリアリティに存在するありとあらゆる対象に対しても当てはまることかもしれない。私たちは、対象と深く向き合えば向き合うだけ、内面がより豊かになっていくのだ。
その背景には、このリアリティの内面も外面も、無限に深まる可能性を内包していることが挙げられるだろう。言い換えると、私たちを取り巻く無数の対象物には、それぞれ無限の深さがあり、そうした無限の階層をゆっくりと降りていくことによって、あるいはゆっくりと登っていくことによって、私たちの内面はより深く、そして豊かになっていく。
今日もベートーヴェンのピアノ曲を聴きながら、雑多なことを考えている。今日はあいにくの曇り空だが、こうした天気でさえも、交感と交歓の余地を多分に持っている。
世界と交わり、世界と歓びを共有すること。そして、世界全体を感じること。
日々の生活の中で、それらを忘れてはならない。なぜなら、それらこそが、私たちの日々に充実感と幸福感をもたらすのであり、同時に、私たちの人生を豊かに、そして深くしてくれるからだ。
歯医者から戻ってきたら、久しぶりにベートーヴェンに範を求めて一曲作ろうと思う。書くことにはもちろん治癒と変容の作用があるが、音楽を作ることに内包されている治癒と変容の作用には驚く。
自分の内側から音を生み出す自己は、自己そのものを癒していく。そして、曲を創造する自己は、自己そのものを変容させていく。
端的には、私たちの自己は自らを癒す力と、自らを変容させる力を内在的に持ち合わせているのだろう。そして、そうした力を発露させる媒介的な行動は、まさに文章を書くことにせよ、曲を作ることにせよ、創造行為なのだと思う。
創造行為の持つこうした治癒と変容の作用については、自らの体験に基づいて、より探究を深めていきたいと思う。フローニンゲン:2019/2/19(火)15:17
No.1700: An Ornamental Hairpin of Passion
When I went for a walk in the evening, I found buds on a naked tree.
I suppose that I will be able to see a passionate dance of spring shortly. Groningen, 18:14, Wednesday, 2/20/2019