今、書斎にはベートーヴェンの美しい協奏曲が鳴り響いている。ここ数日間は、ベートーヴェンのピアノ曲を聴き続けており、曲順として、今日からはピアノソロではなく、協奏曲が流れ始めた。
先ほどふと、美しい音楽、小鳥の鳴き声、そして優しい太陽の光さえあれば、自分は幸福に生きていくことができるのではないかと思った。それらは私にとって幸福感の源泉である。
自然が生み出す美と、人間が生み出す美の双方に包まれる形でこれからも日々を過ごしていきたい。
人間の幸福というものは、実は意外と私たちの近くに存在していることがわかる。日々の何気ない事柄の中に幸福感を見出していく。今日も幸福感に包まれた一日になるだろう。
早朝にもまた、この夏からの生活について考えていた。昨日の日記で書き留めたように、私の魂は、新たな場所での生活を希求している。そしてそれは、私も同じだ。
この三年間、フローニンゲンには本当にお世話になった。三年間、この街で暮らすことによって、自分の魂と自己がどれほど涵養されたかわからないぐらいである。
それほどまでに、フローニンゲンという街は私を育んでくれた。だが、そうした恩恵をもたらしてくれた街を去る日が近づいてきていることを感じる。
夏からの生活地は決まっていないが、それについて不安を覚える必要はない。未確定の事柄に対して不安になる必要は全くない。
生活地が決まるのは三月を迎えてからなのだから、その期間に何を考えようが、何をしようが、生活地の決定が早まることはないのである。そうしたことを考えると、この夏からの生活地が未だ定まらないことに対して不安を覚えることは馬鹿げたことだとわかる。
それに対して不安を覚えるというのは、自我の何かしらの防衛作用によるものだろう。フローニンゲンを離れる時に、生活地の移転に伴う死を体験し、新天地で再び実存的な適応課題に直面するのであるから、今不安を感じる必要はない。
そうした死の体験にせよ、実存的な適応課題にせよ、それらが実際にやってきた時に向き合えばいいだけの話である。不安の先取りは無益であり、害悪ですらあるだろう。
三月を迎えてから決まるであろうこの夏からの生活地との縁を大切にしたい。場所との縁、人との縁の織物を羽織りながら生きていく。そして、自分自身がそうした織物を編んでいくことに関与したいと思う。
季節が春に近づき、時間がゆったりと、かつ足早に流れている。自分が一体化しているのは、もしかすると、時間の流れというよりも、時間の流れを生み出している根源的な何かなのだろう。
人との縁や場所との縁を生成している根源と一体となり、そこから生み出されるものを通じて日々を生きること。それこそが流れの中に生きることなのだと実感する。フローニンゲン:2019/2/19(火)08:45
No.1699: Quietness and a Rumbling of the Earth
A new day began.
I’ll devote myself to my lifework today, too. Groningen, 10:16, Wednesday, 2/20/2019