時刻は午後の三時半を迎えた。穏やかに過ぎていく土曜日が、ゆっくりと折り返しに差し掛かっている。
これから少しばかり作曲実践をして、休憩がてら、近所のノーダープラントソン公園へ散歩に出かけようと思う。公園を散策することを通じて、春の兆候がどの辺りに見られるかを確認したい。
偶然にも午前中と午後に、人は相矛盾する事柄を絶えず内包している生き物だということを考えていた。一つには、人間は可能性が閉ざされることを恐れ、同時に、可能性が開かれてしまうことへも恐れを感じる。
これは早朝に言及したことと近いかもしれない。特に後者の、可能性が開かれてしまう恐れというのは注目に価する。
今までこの観点をあまり意識することはなかったが、ここ最近の自分の内側の状態を観察していると、この恐れに関係するようなものが顔を覗かせることがあった。上記の矛盾以外にも、人は何か新しいことに挑戦する際に、進取の気持ちと同時に、どこかそうした気持ちを抑圧するような気持ちを持つ傾向にある。
後者の気持ちは、自己が暴走をして生命の危機に陥らないようにするための自己防衛機能の表れかもしれない。人間の内側に存在する種々の相矛盾する事柄について、本日は二回も考えていた。
これからゆっくりと、フローニンゲンは夕方に向かっていく。今、春の陽気を感じさせてくれる太陽光が優しく街に降り注いでいる。
気温のみならず、時の流れすらもが春のそれを感じさせるようになってきている。春に固有の時の流れに身を委ねる形で、日々の取り組みを少しずつ前に進めていきたい。
とにかく、塵も積もれば山となるという考えを忘れないようにしよう。小さな積み重ねは、いつか巨大な構築物となる。
その逆として、日々の生活の中で、不必要な事柄を積み重ねていかないようにする。例えば、空いた時間に不要な情報検索を行ったりすることである。
空いた時間に何かを詰めるのではなく、そこはゆとりの時間とし、時の流れの中にくつろぐように心がける。自分の特性上、私は特にこの点を意識しておく必要があるだろう。
午前中にふと、近い将来、ハイデガーの思想をゆっくりと向き合うことになるかもしれないと思った。午前中に読んでいたアーネスト・ベッカーの書籍の中に、ハイデガーのある指摘が引用されていた。
それは、私たちはこの世界に存在していることへの不安(fear of being in the world)と、この世界に存在していることに関する不安(fear about being in the world)の双方を抱くというものだ。この二つの不安が意味していることは、私が想像している以上に深いだろう。
前者は幾分生存に関する事柄であって、後者はより実存的な事柄だと言えるかもしれない。これら二つの不安は、より深く理解する必要があると直感的に感じている。
前々から述べていたが、本棚に眠っている“Being and Time”を近々ゆっくりと読み進めていこうと思う。フローニンゲン:2019/2/16(土)15:48
No.1688: An Ecstatic Sunny Spot
The outside world is rife with ecstatic sunny spots.
I’ll go to a supermarket shortly. Groningen, 11:32, Sunday, 2/17/2019