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3825. 自我の言語記述活動と自己保存欲求


時刻は午後の八時を迎えようとしている。今から数時間前、闇夜が近づいてきた時に聞こえる小鳥の鳴き声が格別な美しさを持っていた。

冷たい闇夜の世界に響き渡る小鳥たちの鳴き声にただただ耳を傾けていた。すると、意識だどんどんと深まっていき、黙想的な意識状態に参入した。

小鳥の鳴き声と、その音色を一段と美しく響かせる闇夜の雰囲気が相まって、意識の変容状態を体験していた。そのようなことをふと思い出していた。

こうした何気ない自然現象に対して、人間の意識が変容しうるということは実に興味深い。自然と意識は密接なつながりを持っており、自然は意識変容の触媒として機能しうるということを改めて実感する。

今日は、アーネスト・ベッカーの“The Birth and Death of Meaning: An Interdisciplinary Perspective on the Problem of Man (1971)”を読み終えた。本書から得られた洞察は多岐にわたるが、今直感的に一つ選び出すならば、自我が行う言語記述活動と自我の自己保存欲求との関係性に関するものを挙げることができるだろう。

おそらく究極的には、名付けをすること、すなわちこの世界を言語で記述しようとする衝動は、自我の自己保存欲求から来るものだろう。自我は世界を語ることで、世界を安心した場に変えていく。

未知な世界に対して少なからぬ不安を覚えるのは人間の性であり、それと同様に、語れない世界に対して不安を覚えるのが自我の特性だと言えるかもしれない。もちろん自我のそうした特性に気づき、自我が根源的に抱く不安感を乗り越えていくことは生半可なことではないが、スザンヌ・クック=グロイターやジェーン・ロヴィンジャーをはじめとして、自我の発達論者の研究を眺めてみれば、それは高度な自我の発達段階において可能であると言える。

自我が言語記述活動を通じて外面世界に対してのみならず、内面世界に対して記述を行おうとする背後にも、自己保存欲求も存在していると言えるだろう。自己を言語を通じて客体化させるということは、客体化される存在が自己に存在しているということを確認する意味で、自己客体化という行為によって、自我は巧妙に自己保存欲求を満たしていると言えるかもしれない。

そのように考えてみると、自己及び世界を記述すること、つまり言語化することは、自我の自己保存欲求に根ざされたものだと考えることができる。自我の言語記述活動における狡猾な点は多岐にわたるが、その一つとして、ある対象を客体化することによって、その存在を明るみにし、自己保存に活用できる道具とみなすという巧妙な特性がある。

自我は実にこれがうまい。また、単にそうしたことを巧妙に行うだけではなく、自己保存に活用していることを私たちに悟らせない形でそれを遂行することにも長けている。

夕食前の入浴中に、自我のこれらの側面について考えを巡らせていると、自我の狡猾な部分に気づくことは、ひょっとすると、それすらも自我の計らいであり、それによって自我の最重要な狡猾さを隠蔽することにつながっている可能性もあると考えていた。

だが、これまでの経験上、特殊な意識状態において、自我の真正な顔と鉢合わせする体験が何度もあり、自我の最重要な狡猾さとその手口については随分と明るみになっているように思う。また、自我の性格を配慮して、そうした狡猾さをあまり問い詰めすぎないこともまた、自我が真正な顔を表に出し、少しずつ自我が一点の自己に帰還していくことを促すことにつながるだろう。

そのようなことを入浴中に考えていた。フローニンゲン:2019/2/13(水)20:10

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