
窓の外に見える裸の街路樹が風に揺られている。その揺れを眺めながら、まだとりとめもないことを考えている。
私たちは誰しも、固有の英雄像を持っており、その英雄像に近づくための英雄行為に乗り出す内在的な特性がある。そのような指摘をベッカーがしていた。
人間存在に関する洞察を深め、その人と深く関係する際に、目の前にいる他者がどのような英雄像を描いており、その人の英雄行為を形作る認識の枠組みを理解することが重要になる。いや、より望ましいのは、その人が人生において未だ英雄になれていないと劣等感を感じる感情の所在がどこにあるのかを理解することが、その人を深く理解する上でカギになるとベッカーは述べている。
ここで注意が必要なのは、そうした英雄像そのものが個人的な産物のみならず、文化的な産物であるということだろう。私たちの社会には、英雄を人為的に作り上げていく巧妙な仕組みがある。
ベッカーは文字通り、それを「英雄システム(hero system)」と表現しており、それはいかなる社会にも存在しており、悪や死に打ち勝つことを人々に約束するような仕組みとして機能している。社会は、先日の日記で書き留めたように、スケープゴートを立てるが、それだけではなく、同時に英雄も打ち立てる。
それらのどちらもが、実は私たちの目を私たち自身から背けるための道具になっており、中でも死への恐怖から私たちの目を背けるために巧妙に活用されている。
ベッカーの指摘の中で印象に残っているのは、人類の歴史を通じて、死というものが権力の維持のために搾取されてきたという事実である。それは過去形ではなく、現在進行形として存在している事実だろう。
皮肉なことに、死というものが搾取され、死が宙吊りにされる形で生と死が分離した状態で私たちは生かされている。もしかすると、搾取の対象は死のみならず、生でもあるかもしれない。
生と死は本来不可分なものであるから、その片方が搾取されてしまうことは、もう片方の搾取も意味しているだろう。仮に生と死の二つが搾取されているのであれば、私たちはいかように生きればいいというのだろうか。そうした二重の搾取を被る中で、私たちは虚構の英雄像を追い求めることに仕向けられているのかもしれない。
この現代社会の仕組みは本当に歪である。いや、人間を巧みに矮小化し、家畜化するという点に関しては、これほどまでに精密精巧なものはないと言えるかもしれない。
もう少しだけ文章を書いたら、作曲実践に移ろうと思う。私たちは発達の過程で、遅かれ早かれ、二つの対極的な事柄に気づく。
一つは、自らが何者にも代えがたい固有な存在であるという気づきである。もう一つは、そうした固有性と共にある自らの命が有限であるという気づきだ。
この二つに気づくと、両者に板ばさみになることが避けられない。そこには、何者にも代えがたい固有であるはずのものが、永遠たりえないという苦悩が生まれることになる。
人類の歴史上、私たち一人一人の存在は唯一無二なのだが、その存在が永遠たりえないというのは皮肉なことである。こうした皮肉、ないしは二つの気づきに板ばさみにされることによって生じた苦悩を乗り越えていくためには、固有性の向こう側を見出し、有限性の自覚を通じて、有限性の向こう側を見出す必要があるだろう。
そこには、固有性も普遍性もなく、永遠も非永遠もない。いや、それら全てがそこにあり、それら全てがそこにないということに気づければ、上述の苦悩を乗り越えることができるのではないかと思う。
目の前の通りを走り去る車の音が、そしてこだまする小鳥の鳴き声が、その考えに賛同を表明してくれている。フローニンゲン:2019/2/13(水)11:30