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3823. 標準化された自己効力感


時刻は午前11時を迎えた。今日は雨は降らないが、一日を通して曇りがちの日になるようだ。

先ほどまでベッカーの書籍を読み進めており、特に関心を引いた三つの章を全て読み終えた。午後からは、その他の章についてもざっと目を通しておこうと思う。

これから休憩がてら、一曲ほど曲を作りたい。外の世界には、相変わらず小鳥の鳴き声がこだましており、心が安らぐ。

私は欧州の三年間の生活を通じて、絶えず何かしらの発達課題と向き合いながらも、不要なストレスは一切ない生活を送っている。心身の状態を大きく崩す根元の最たるものとして、不要なストレスが挙げられることを今朝方も考えていた。

先ほどの日記で書き留めた「如来性」というのは、人間の死についても当てはまるだろう。死は来るが如しなのだ。

だが、現代人は死を大いに忌避しながらも、自ら率先して死に向かっていこうとする。不必要かつ大量のストレスを得ることが常態化してしまっている現代人を見ると、そのようなことを思う。

そうした不要かつ大量のストレスを感じさせてしまう現代社会はどこかおかしく、それに気づくことができない現代人にもおかしさが潜んでいると言えるだろう。現代社会の文化と仕組みは、来るが如しの形で死を体験させることを現代人に許さない点で、非常に非人道的だ。

また、そうした巧妙な文化と仕組みに気づくことができず、ストレスに晒され続けてしまっている現代人はもはや人間とは呼べない存在に成り下がってしまっているのではないか。

昼食前に一曲作る前に、もう少し文章を書き留めておきたい。ベッカーの書籍を読んでいる最中に、非常に洞察溢れる指摘を見つけた。

それは、この現代社会においては、自己効力感すらもが標準化されているというものだ。確かにベッカーは、自己効力感を感じることの重要性を指摘している。私もその点に同意する。

だが、ベッカーが指摘しているように、仮に自己効力感というものが、この現代社会によってこしらえられたものであり、なおかつそれが標準化されたものである場合、自己効力感を得ることを促すことは実に安易なのではないかと思わされる。

一昨年、昨年と、発達科学の研究に従事する際には、随分と統計学的な手法を活用した。また、複雑性科学の一領域である非線形ダイナミクスの手法を活用して研究を進めていた。それらの手法には、たいていデータを標準化させるプロセスが組み込まれていた。

確かにそれをしなければ見えてこない発見事項があることは確かだが、私は標準化の手順を踏むときには、いつも何か重要なことが喪失されてしまっているのではないかと感じていた。一つのデータには、標準化されえぬ意味が含まれているのだ。

しかもその意味は階層構造を本来持っており、標準化されてしまうことによって、文字通り、単一的な意味に成り果ててしまう。上述のベッカーの指摘と合わせて考えると、確かに標準化によって物事が扱いやすくなる側面もあることは確かだが、その代償として、階層的な尊い意味を喪失してしまうことを忘れてはならない。

何よりも、自己効力感を標準化し、それを高めることを促す現代社会は、人間存在というものを極めて矮小化しているのだ。ここにも現代社会の愚行を見て取ることでき、そうした標準化された自己効力感を懸命に高めようとする現代人の愚行も見て取ることができる。フローニンゲン:2019/2/13(水)11:09

 
 
 

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