時刻は午前九時を回った。先ほど、早朝の作曲実践を終え、そろそろ一杯目のコーヒーを飲みながら、今日の探究活動に入っていきたい。
今日はまず最初に、アーネスト・ベッカーの“The Birth and Death of Meaning: An Interdisciplinary Perspective on the Problem of Man (1971)”を読み進めていく。中身を改めて確認すると、本書はまだ未読のようであり、先ほど目次を確認して、どの章を読むのかを決めた。13章のうち、3つの章が自分の関心に合致するものであり、それらの章を今日中に読み進めていこうと思う。
ここ最近は、死という現象に対する関心が膨らみ、それを文化人類学や社会学、そして心理学の観点から探究することを始め出した。当然、このテーマは今後一生涯を通じて探究していくものになるだろうという予感があり、決して無理をして探究を進めてはならない。
そもそも、今の私が死を扱うというのはあまりにも早すぎるように思えてくる。だが、死への関心が芽生えたことにもきっと何かの意味があるはずであり、その意味を見出すためにも、このテーマの探究を進めていく。おそらく、その意味は突然目の前にやってくるだろう。
発見、経験、発達、それらには一つの共通した性質がある。それは「如来性」である。
発見、経験、発達はまさに、やって来るが如しなのだ。それらは抗いようもなく、突然向こうからやって来る。
私たちにできることは、やって来たそれらに気づき、それらを受け入れることなのだ。そのようなことを思う。
先ほど作曲実践をしていた時、死にまつわる種々の感情は、太古の時代より何ら変わりのないものなのかもしれないということを思った。曲によってそのような感覚が喚起されたのである。
そしてそこからふと、昨日読んでいたオットー・ランクの書籍で書かれていた記述について考えを巡らせていた。ランク曰く、真の芸術家は、不死を暗示させる時代の支配的なイデオロギーに屈しようとしないという特質を持つ。
ただし、集合的なイデオロギーではなく、自らが生み出す創造物を通じて、個人の不死を実現させようとする欲求がある、ということをランクは述べていた。この指摘に対しては、自分が日々日記を綴り、作曲を行っている背景にあるものを考えると、納得できる部分が少なからずある。
創造行為というのは、おそらく時代に迎合するようなものでは決してなく、時代に抗う形で時代を変容させていく行為なのかもしれない。そしてそれは、時代が巧妙に作り上げた幻の不死を追いかけることに抗い、自らの創造行為を通じて、自らの固有性が顕現した創造物を永遠なものにしようとする営みなのかもしれない。
雑多な考えが次から次に浮かんでくる。それらの考えを育んでいくというよりも、今は思い浮かんだ考えをつぶさに書き留めておくことを優先させたい。
自らの考えを深めていくのは、書き出すというプロセスを通じて、つまり書きながら考えていくというのが最も望ましいように思える。とにかく書き、書き出し続けることを続けていく中で、思考が深まる如来性を待つのである。
それはいつか必ずやって来る。発見、経験、発達は、全て向こうからやって来るものなのだ。
そして、時間も、人との出会いも、場所との出会いも、全ては向こうやらやって来るものだったのだ。フローニンゲン:2019/2/13(水)09:33
No.1677: A Song of the Setting Sun
Today has been sunny all day long.
I’m seeing the beautiful setting sun now.
I wish tomorrow will be as wonderful as today. Groningen, 17:24, Thursday, 2/14/2019