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3819. 真の自己理解の難しさ


今日は午後に、歯医者に定期健診を受けに行ってきた。幸いにも、虫歯はなく、いつものように、また来週に歯のクリーニングを行ってもらうことになった。

この歯医者に最初に訪れたのは、今からもう二年前のことであり、その時の私は、定期的に歯医者にいく習慣がなく、親知らずの痛みのためにこの歯医者に訪れた。今日は、二年前に撮影したレントゲンが古くなっているそうだったので、再度それを撮り直した。

しかしよくよく考えてみると、今年の夏からは生活地を変え、今回の歯科検診が最後であるから、レントゲンを撮る必要はなかったのではないかと後から思った。当然、歯科医は私がこの夏にフローニンゲンを離れることを知っていないのだから仕方ないのだが、もう少し自分の機転を利かせることができれば、レントゲン撮影をしなくて済んだのかもしれない。日常、もう少し頭を使う必要があることを実感する。

今日は午前中に、エーリヒ・フロムのThe Anatomy of Human Destructiveness (1973)”を本棚から取り出した。アーネスト・ベッカーやオットー・ランクの書籍を最近読み返しているが、初読のときの日付を確認すると、それらは往々にして今からちょうど一年前に読まれていたことがわかる。

彼らの書籍に対して関心を示すことの背後には、何かしらのサイクルがあるようだ。彼らの書籍に加えて、午前中、ハーバート・マルクーゼの“Art and Liberation: Collected Papers of Herbert Marcuse, Volume 4 (2017)”を購入した。

目次を見た瞬間に、芸術を取り巻く社会学的な考察に響くものがあり、本書を迷わず購入することになった。先日は、イギリスの書店に、芸術と狂気に関する書籍を注文しており、近々それが届く。上述の著者の書籍と合わせて、ここからまた少しずつ自らの関心に沿って探究を進めていこうと思う。

本日、ベッカーの書籍を読んでいた時に、真の自己理解を得ることの過酷さに改めて気づいた。ベッカーが指摘するように、真に自己を理解するというのは、己の自我の虚構性や狡猾さについて自覚的にならねばならず、そうした虚構性や狡猾さは、絶えず己の動物性や死を拒絶しようとする衝動に基づいて構築されている。

ここにもまた、自我の狡猾さと死の拒絶に関する問題が密接に関係していることが見て取れる。真に自己を理解していくというのは、自我の狡猾さに自覚的になることであり、死の恐怖を乗り越えていくプロセスだと言えるだろう。

巷では、自己理解のためのリフレクションの実施が叫ばれているが、それは決して本質的な自己理解を得るためのものではなく、せいぜい、狡猾な自我に踊らされる形でなされるお遊戯程度のものに過ぎないのではないかと思う。

自我の狡猾さに自覚的になるというは本当に労力のいることであり、そう簡単に実現できるものではない。また、自我の虚構性に気づくというのも至難の技であり、その背景には、私たちの自我は、絶えず虚構に虚構を上塗りする形で自己保存をすることを得意としているからである。

結局のところ、本当に死を恐れているのは私たちというよりも、私たちの自我なのだろう。自我は、自己保存と永続性に関する極めて強い欲求を持っており、その欲求に基づいて狡猾にも様々な虚構を作り上げていくのである。

自我の狡猾さと虚構性を暴いた先には、また新たな実存的課題が立ちはだかっており、そう考えてみると、自我の狡猾さと虚構性に自覚的になることを強く勧めることはできそうにない。だが現代人の多くは、狡猾な自我に踊らされることによって、もはや耐えらない苦痛を感じ始めているのも確かだろう。

そうなってくると、やはり私たちは発達の歩みを進めなければならないのだろうか。フローニンゲン:2019/2/12(火)20:22

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