時刻は午後七時半を迎えた。今日は一日を通して良い天気であった。
夕方、黄昏が何かを私に語りかけているように思えた。
冬が静かに進行し、もう直ぐ春がやってくる。その時には、先ほど眺めていた黄昏も表情を変えるだろう。
先ほど黄昏が語りかけてきていたのは、別れだったのかもしれない。そして、新たな季節でまた会う約束について語りかけていたのかもしれないと思う。
先ほど夕食を摂りながら、改めて、現在の学校教育におけるテスト、さらには偏差値というものについて考えていた。端的には、学校のテストも偏差値も、根本的には何も語ってくれない単なる数字なのだ。
確かに、例えば偏差値は、分散から算出されるものであるため、母集団のどこに自分がいるのか、上位からどれくらいの位置に自分がいるのかなどはわかる。だが、それがわかったところで一体なんだというのだろうか。
偏差値は、その人の学力の質的な特性については何一つ教えてくれないのだ。そうした偏差値と密接に結びついた学校におけるテストの類は、全くもって民主主義的ではない。
そこでは、テスト結果との対話がなく、テストを実施した教師との対話も基本的にはない。対話のない民主主義は成り立つのだろうか?そのように考えてみると、テスト結果に関して一切の対話が生まれない現行の教育は、多分に非民主主義的なものだと言えないだろうか。
また、偏差値なるものを上げるためには、基本的には他人を蹴落とさなければならない。偏差値を取り巻く戦争のようなものが、現代の教育には依然として存在している。
そうした本質的には何も語ってくない偏差値を崇め、それを高めることに躍起になることが馬鹿げた試みであるということに対する覚めた目がないというのは大きな問題だろう。偏差値というシンボルを神聖化し、それを高めようと躍起になることは、カネを神聖化し、それをより多く獲得しようと躍起になることと同じ構造を持っており、同時に、同じぐらいに馬鹿げたことだと思える。
今日は、アーネスト・ベッカーの書籍とオットー・ランクの書籍を読み進めていた。ベッカーの書籍の中で、ニューヨークの精神科医の興味深い観察結果が示されていた。
端的に述べると、マーケットが上昇期にある時は、全能感のようなものがウォールストリートの人々の間に漂うが、マーケットが下降期にある時は、人々は無能感(impotency)を感じるというものである。
この観察結果から、カネというシンボルに自己を投影し、そのシンボルの多寡によって、自らの精神状態が変動してしまう哀れな人間の姿が見える。ここでは、人間存在がシンボルと同一化してしまっており、自らをカネと同一視してしまう問題が窺える。
ひとたびカネを絶対的なものだとみなし、全能な存在だとみなしてしまったら、マーケットというカネの集合としてのシンボルが力を失った時に、それに対して不要なまでに不安を感じ、あたかも自分の力まで減退してしまったと錯覚してしまう。
もしかすると、人間発達において抽象的な事柄を扱える能力を獲得することは、技術の進歩と同様に、一概にも良いことだとは言えないのかもしれない。カネという幻想的な概念は得体が知れず、極めて抽象化された存在であり、カネを取り巻く政治・経済的な事柄は極めて複雑であるがゆえに、下手に脆弱な抽象思考能力を人間が獲得してしまったばかりに、カネに踊らされるという現象が生じてしまっているのかもしれない。フローニンゲン:2019/2/12(火)20:01
No.1674: A Frozen Wave Motion
There is a source of dynamics in the innermost place of a frozen wave motion. Groningen, 17:45, Wednesday, 2/13/2019