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3801. シューベルトの音楽に範を求めて


時刻は午後の七時半を迎えた。今日もまた、一日が静かに流れ去っていった。そうした感覚と同時に、確かに自分の内側で何かが堆積していったという小さな感覚がある。

時は過ぎ、時は流れていくが、自分の内側には流れることのないものがあり、さらには時の流れに流されることなく積み重なっていくものがあることを知る。

今日は、昨日に届いた“Analyzing Schubert (2016)”を200ページほど読み進めていった。もちろん、隅から隅まで一字一句読んでいったわけではなく、今回は初読であるから、自分の関心を引く箇所を中心に読み進めていった。

下線を引く箇所、そして書き込みをする箇所が随分と多かった。これまで自分が抱いていたシューベルト像、ないしはシューベルトの音楽に対する印象が肯定的な意味で変わり、よりシューベルトの音楽に関心を持った。

本書を読み進めていったことが確かな刺激となり、今夜はこれから、シューベルトの曲に範を求めて作曲実践を行おうと思う。シューベルトのピアノ曲に関しては、すでに楽譜を三冊ほど持っていたのだが、これまでシューベルトの曲を参考にしたのは数回ほどだと思う。

ここから少しずつシューベルトに範を求めて作曲実践を行い、少しずつシューベルトの作曲語法に慣れ親しんで行き、それらを少しずつ我が物にしていく。

上記の書籍を読んでみると、シューベルトのハーモニーに関しては、過去の多くの音楽理論家は批判的な意見を述べているようだが、著者はシューベルトのハーモニーに対していくつもの洞察を見出している。それらの説明を読んでみると、シューベルトのハーモニーの技術については特に学ぶことが多いだろうと考えている。

上記の書籍を読み始めたことは、作曲実践に早速確かな影響を与えている。作曲技術というのはこのように深まっていくのだろう。

過去の多くの音楽理論家の仕事を参考にし、彼らが見出した観点に触れるたびに、何か触発されるものがあり、それを実際の作曲実践で活用してみる。そうしたサイクルをこれからも大切にしたい。

ちょうど今、シューベルトのピアノ曲を聴いている。ここから数日間は、この八時間に及ぶピアノ曲全集を聴いていきたい。

シューベルトについて思いを馳せるとき、二年前に訪れたウィーンの記憶が蘇ってくる、シューベルト博物館で見た、シューベルトが実際にかけていた眼鏡がとても印象に残っている。

若くしてこの世を去ったシューベルトは、どのような死生観を持っていたのだろうか?また、その死生観は彼の音楽の中でいかように体現されていったのだろうか?

そして、それはどのような形で楽譜に現れ、いかにしてそれを楽譜から汲み取ることができるだろうか?そのような問いが頭に浮かぶ。

結局今日は、昨日に予定していた実験をすることができなかった。それは、スクリャービンが発明した神秘和音を実験してみることや、ストラヴィンスキーやラヴェルも活用していたペトルーシュカ和音を実験してみることである。

明日は、バッハのコラールを参考にする際に、Cメジャーキーを選択して、それらの実験を是非行いたいと思う。フローニンゲン:2019/2/9(土)19:48

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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