たった今日記を書き留めたにもかかわらず、まだ何かを書こうとする自分がいる。今夜は、執筆衝動が幾分激しい。
いや実際には、昨夜もそうであった。しかし昨夜は、執筆をする代わりに、40分ほど独り言をつぶやいていた。
結局そのような独り言をブツブツと述べるようになった背景には、日記を書き足りなかったことが挙げられるだろう。
確かに私は日々日記を書き、それを共有しているが、誰かに読まれることは一切期待していない。「誰かに読んでもらうために書くのが文章というものだろう」という声が聞こえくる。確かにそれは一理ある。
私も、この世界のどこかの誰かに向かって無意識的に文章を書いているという側面は必ずある。だがその人がこの時代に生きているかどうかということは関係なく、自分がこの世を去ってからの時代の誰かに読んでもらえればそれでいいと思っている節も多分にある。
誰かのために文章を書くというのは確かに尊いことである。直近に出版した書籍はまさに、それを読んでくださる方のために書かれたものだ。
だが、自分にとって本当に重要な事柄、一切譲ることのできない事柄というものを、読み手を意識したり、他者に迎合したりする形で書いてしまった瞬間に、それは極度につまらないものになってしまう。
実際に私はそうした文章を長らく書いてきた。だが、もはやそのようなことはしない。
そうした意識の芽生えは、欧州に来る前年に日本で一年間ほど生活していた時の最中に起こった。たとえ誰も読んでいなくても、誰も見ていなくても、自分は自らの声を発し続け、それを文章という形にしておく。
人間が人間であるというのは、自らの声を外に表明することなのではないだろうか。それは物理的に声を発するということではなく、自らの内側にある声を外側に表現するということである。
自分に固有の人生があるということ、自らに固有の命があるというのは、自らの固有の声があることと同義なのではないだろうか。そうであるならば、自らの人生を生きるというのは、そして自らの命を生きるというのは、自分の声を外側に表現することなのではないだろうか。
であれば現代人は、全くもって自らの人生を生きておらず、自らの命を生きていないことがわかる。自らの人生と自らの命に対して背徳的に生きることを自らに許していいのだろうか。現代人は、自らの人生と自らの命に対する背徳者であり、罪人である。
窓の外を眺めると、真っ暗闇の中に、オレンジ色の街灯の光が輝いている姿が目に入った。街灯の周りには蛾が集まっている。
蛾と蝶の違いについて考えてみる。すると、自分の内側では、絶えず蝶が羽ばたいていることに気づく。
オランダにいる自分の内側で羽ばたいている蝶は、いつかこの世界のどこかで蝶以外の存在に変容する。そして、今この瞬間の蝶の羽ばたきは、そこに向けて自分を運ぶ極めて重要なものだと言えるだろう。
日々四六時中、自分の内側には蝶が舞っており、その舞いに自覚的になれるかどうか。そうした舞いに自覚的になれる時、真の変容が始まるだろう。
その舞いは、後々の自己に大きな影響を与える。いかなる舞いが自分の内側に起こっているのか、そしてそれにはどのような意味があるのかについて、絶えず自覚的になること。
それこそが変容の第一歩だと言えるのではないだろうか。フローニンゲン:2019/2/6(水)20:30