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3777. 閉じられるドア・開かれるドア:死の先取りとしての夢及び音楽体験


時刻は午後の三時半を迎えた。今日は嬉しいことに、天気予報を裏切る形で、午後からは太陽の光が燦然と地上に降り注ぎ始めた。

早朝の予報では一日を通して曇りとのことであったが、午後からは晴天に恵まれた。そのため、午後に仮眠を取った後、つい先ほどまで、30分ほどランニングとウォーキングを行っていた。

今日は近くの運河沿いのサイクリングロードを走ったり、歩いたりしていた。その最中、絶えず自覚的な自己があり、自己及び自己が絶えず生起するそのプロセスを観察し続ける意識が芽生えていた。

このサイクリングロードを走ったり、歩いたりするときは、ある一つのマンションを折り返し地点にしている。そのマンションは、一年前か二年前の日記で言及したように、一風変わった巨大な絵が壁に描かれている。

それは宇宙空間の中に浮かぶ三つのドアと、開かれたドアから光が発せられている姿を描いている。私はこのサイクリングロードを通る際には、いつも必ず意識的にこの絵を眺めている。

今日は、その絵がよく見える地点で立ち止まり、しばらくぼんやりとその絵を眺めていた。

ドアは開き、ドアは閉まる。そして再びドアが開く。

これはどこか私たちの人生そのものに思えてくる。

今から六年前、私がジョン・エフ・ケネディ大学を卒業した時、私は博士課程の進学を考えていた。だが、出願した大学から受け入れられなかった私に対して、当時在籍していた統合心理学科のプログラム長であるヴァニース・ソリマー教授は、「一つのドアが閉じられることによって、別のドアが開かれる」と私に声をかけてくださった。その言葉をふと思い出した。

マンションの壁に描かれた宇宙空間は闇なのだが、そこにドアから光が差し込んでいる。その様子もまた意味深長だ。

今日もまた、人生のある一日が静かに始まり、静かに終わりに向かっていく。流れそのものも静かであり、私はその流れの中に溶け出してしまっているかのようだ。

確かに日々は毎日結晶化されていくように感じるのだが、同時にそれは溶けて時間の流れの中に還っていく感覚がするのである。依然として、毎日が水の流れのごとく進行していく。日々は如水である。

今朝方、ミヒャエル・エンデの父であるエドガー・エンデが、夢は死という現象の先取りであると述べていたことについて考えを巡らせていた。そこに、ここ数日読んでいたシュタイナーの書籍で書かれていた記述を加味すると、作曲者の霊性が凝縮された、ないしは霊性が発露した音楽を聴くことは死の先取りなのではないかと思えてきた。

いや、それのみならず、自らの霊性を発露させる形で曲を創造することは、死の先取りと言えるのではないかと思えてきたのである。端的には、音楽体験は即身成仏たり得るのではないだろうか。そんなことを思うのである。

ここ最近、私が仮に博士号を取得するほどに探究したいテーマがあるとすれば、それは霊性と死だと考えていたことが納得できる。そこに芸術を関連付けて、芸術・霊性・死というこの三つが自分が長らく従事する探究テーマになる予感がしている。

依然として、夕方の太陽の光がフローニンゲンの街に降り注いでいる。フローニンゲン:2019/2/5(火)15:42

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