
時刻は午後二時半を迎えた。天気予報の通り、午前中から雪が降り始めた。
それは最初、パラパラと天から降り注ぐ粉雪程度であり、「これくらいの雪であれば積もることはないだろう」と私は思っていた。ところが、しばらくして再び窓の外を眺めてみると、見る見るうちに雪が積もり始めていた。
そしてしばらく仕事をしていると、辺り一面が白銀世界になった。昼食前まで雪が降っており、ちょうど買い物に行く前に止んだ。
近所のスーパーに買い物に向かっている最中に、まだ誰も踏んだことのない雪の上を通っていた。すると、雪を踏みしめるなんともいえない音が聞こえてきた。また、その感覚も独特なものがあった。
まだ誰も踏んだことのない雪の上を歩いていくことは、どこか自分の人生を象徴しているように思えた。おそらくこれは、私の人生だけではなく、全ての人の人生にも当てはまることだろう。
私たちは皆、固有の人生を歩いていく。その道を歩いている時に見える景色や聞こえる音は当然異なる。そうした景色や音をどれだけ味わえるか。それがこの人生を生きていく上で大切になるだろう。
買い物から帰ってきて昼食を食べていると、通りを挟んで向こう側に見える赤レンガの家から二人の小さな子供が外に出てきた。男の子の方が兄のようであり、女の子の方が妹のようだった。
兄は小さな自転車にまたがったままそこに止まっていた。一方、妹の方は、雪の積もった道路の上で、嬉しそうにクルクル回っていた。それはおそらく、世界が白銀世界と化したことに対する喜びの表現のようだった。
そうした可愛らしい様子を眺めながら、このように自らの身体を持って直に世界と接し、その喜びを身体を通じて表現することは極めて重要だと思った。現代社会は、ますますこうした機会を子供たちから奪ってしまているように思えて仕方ない。
子供の発達上何よりも重要なのは、まずはあの女の子のように、この世界に直に触れる体験をすることだろう。それが身体的感覚的な発達を促すのみならず、後々の知性の発達に大きな影響を及ぼす。
その子の喜ぶ様子を眺めながら、そのようなことを思っていた。
今日も午前中に、集中的に過去の日記の編集を行っていた。午後からも引き続き編集を行っていけば、なんとか今日中に全ての日記の編集が終わるだろう。
過去の日記を読みながら、そういえば、私は30年以上もリュックサックのことを「リックサック」だと思い込んでいた。いつかの夢の中でリュックサックが現れることがあり、その夢を後ほど書き留めている時に、「リックサック」という言葉はおかしいことに気づいた。
おそらく私は、その他にもまだ数多く言葉を間違えて覚えているものがあるに違いない。今後も日記を書き続けていく中で、徐々にそうしたものを発見していき、適宜矯正をしていきたい。
それもまた、発達の原理である自己矯正の一種だと言えるだろう。フローニンゲン:2019/2/1(金)14:49
No.1634: A Little Bird’s Warming‐Up
A little bird is doing warming-up, changing its voices variously. Groningen, 11:37, Saturday, 2/2/2019