先ほど、先日に作った曲を聴き返していた。いつも早朝の作曲実践を始める前に、過去に作った曲を数曲ほど聴くことを行っている。
曲を聴きながらふと、現代人の自分が過去の作曲家が作った曲に範を求め、それを参考にして曲を作ることは、彼らの曲を現代の中で生き返らせることにつながりはしないだろうかと考えていた。
ここでもやはり、死と蘇りが主題として立ち現れている。ないしは、死と永遠の主題が見え隠れしている。
私が彼らの作品に範を求めているのは、それはもちろん、彼らの作品から学び、自らの作曲技術を高め、作曲実践そのものをより豊かなものにしていくためである。だがそれ以外にも、彼らが創造したものに対して敬意を表し、彼らの作品をさらに永遠のものとするために、彼らの作品を参考にしながら曲を作っているようにも思える。
言い換えると、現代という文脈の中で生きる自分が彼らの曲を参考にして新たな曲を作ることによって、彼らの曲をまた別の次元で不朽のものにしていく試みに従事しているように思えるということだ。同時に、彼らの作品そのものだけではなく、自分が生きた証を永遠のものにするために曲を作っているようにも思える。
私たちの生は永遠でありえないが、私たちが生きた証は永遠のものになりうる。それは自らの生きた証に関しても同様だ。
現代人の多くは、自らの人生を生きることを放棄している。自らの人生が他者や社会によって作られていることに抗うかのように、私は日記や作曲を通じて自分の人生を必死に形作ろうとしているのかもしれない。
自らの人生を他者や社会によって作らせてはならない。自分で自分の人生を創造していくことが大切だ。
そのために日記の執筆があり、そのために作曲実践がある。自分という一人の固有な人間の固有な人生を創造し、それを生き抜きたいと私は思っているのだろう。
そうした思いが、日々の日記の執筆と作曲実践に向かわせている。日々の一つ一つの営みが、有限性や永遠性という主題と密接に結びついていることがわかる。
またそこには、人生と創造という主題も横たわっている。これらの主題を探究していくために、毎日の日記の執筆と作曲実践があるのだろう。
今日はこれから、協働者の方々とのオンラインミーティングがある。厳密には、協働先の会社が主宰するイベントに登壇させていただく。
テーマは、若手社員の挑戦と成長である。他のゲストスピーカーの方々とのやりとりや、会場の皆さんとのやり取りをとても楽しみにしている。
今日は昨日と連続していながらも、昨日とは異なる喜びや充実感を感じられる一日になるだろう。午前八時を迎えたフローニンゲンは、すっかり夜が明けた。
これから始まる一日が楽しみであり、この日を生きれたことに感謝の念を捧げたい。楽しさという感情と感謝の念が、自分をどこか遠くの世界に連れて行ってくれるように感じる。フローニンゲン:2019/1/30(水)08:12
No.1629: An Exquisite Sunset
Even though it was sunny today, I missed the sunset.
Once I close my eyes, I can see an exquisite sunset. Groningen, 17:45, Thursday, 1/31/2019