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3742. 神聖なものを呼び覚ます教会旋法


時刻は午前10時を迎えようとしている。まだ雨や雪が降っておらず、辺りはとても静かだ。

灰色の雲が空全体を追っているが、それほど不気味な雲ではない。天気予報では、もうそろそろ雨か雪が降ってくるとのことであるが、それが当たるのか外れるのかを確認することが楽しみだ。

裸の街路樹が、冬の風に揺れている。そういえばここ数日間は、街路樹に意識を向けることはあまりなかったように思う。

目の前の裸の街路樹が再び青々と茂る日が来るまで、私はまたゆっくりと歩いていこうと思う。今目の前には存在していないはずの新緑の姿が想像できることに改めて驚く。人間の想像力は計り知れないものがある。

さらには、あのような輝かしい緑をつける生命力が、今目の前に見えている裸の木に存在していることも驚くに価する。このリアリティにおいて、私たちの目に見えていることなどほんのわずかであり、無数の事柄が私たちの目には見えない形で存在している。そうした目には見えないものを、想像力を働かせて見つめようと試みることを忘れてはならない。

今日は午前中に、協働者の方とのオンラインミーティングがあった。ミーティングを終え、昼食までの時間を再び自分の取り組みに充てていく。

具体的には、昨日から読み進めている“A Concise Explanation of the Church Modes (2018)”の続きを読み進めていく。教会旋法に関する理解を徐々に深めていきたい。

昨夜本書を読んでいると、教会旋法に関してこれまで私が知っていた七つのもの以外の種類が存在していることを知った。また、私が一番興味深く思ったのは、なぜそれらの作曲様式が教会音楽で使われたのかという点だった。

想像するに、教会旋法の一つ一つには、霊的なものを具現化させる力、ないしはそうしたものを媒介させる力があったのではないかと思う。もちろん、教会旋法を活用したからといって、そうしたことが実現されるわけではないのだが、教会旋法が活用されていた当時のことを想像すると、それらの手法は間違い無く、神聖なものを呼び覚ますために活用されていたのではないかと思う。

私が教会旋法に着目しているのは、まさにこの点にある。教会旋法を通じて、あちらの世界のものをこちらの世界に降ろしてくること、さらには、こちらの世界のものをあちらの世界に高めていくことを行っていきたいという思いがある。

前者はアガペーの側面を帯びており、後者はエロスの側面を帯びている。教会旋法を積極的に活用した作曲家の仕事には、これからも関心を持ち続けていく。

一時間ほど上記の書籍を読んだら、昼食前にもう一度作曲実践を行いたい。その際には、エマニュエル・シャブリエの曲を参考にしていく。

今朝方ふと、私は楽器を演奏した経験など一切なく、作曲に関しても学術機関でトレーニングを受けたわけではないことを踏まえて、自分はどこかハイハイをせずに突然歩き始めた幼児のように思えた。

それゆえに、歩く過程の中で何度もこけてしまうことは必然だろうし、歩行に関する基礎を絶えず固めていく試みを続けていく必要があるだろう。フローニンゲン:2019/1/28(月)10:12

No.1621: A Greeting for Tomorrow

It’s time that I can hear a gracious greeting for tomorrow. Groningen, 20:57, Monday, 1/28/2019

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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