3723. 輝きとしてのリアリティ
- yoheikatowwp
- 2019年1月25日
- 読了時間: 3分

自分でもなぜ絶えず日記を書いているのかわからないが、とにかく書く。書けなくなるところまで書き、書けなくなっても何度でも書く。
書くことによって自己を書かせることが、自己が真に生きる道である。まだまだ書く。
ふと思うのは、人生には希望も絶望もないのではないかということである。さらには、光も闇もなく、仮に存在するとすれば、希望と絶望、光と闇のそれら全てを含む爆発だけなのではないかと思えてくる。
ここは説明が少し難しいが、人生には表層的な光を超えた、炸裂する光があるのではないかと思えてくる。まさに、目の前の裸の木に止まった鳩が、今この瞬間に炸裂的な閃光を発しているようなその輝きである。
なるほど、それは輝きなのだ。希望でも絶望でも、光でも闇でもなく、それは輝きと形容できるようなものなのかもしれない。
輝きとして存在していたハトが飛び立ち、そこには誰もいなくなった。誰もいなくなったところに、カモメがやってきた。おそらくこれなのだろう。私たちの人生はこれなのだろう。
人生は笑いではないし、笑えないものでもなく、抱腹絶倒的な笑いであることは先ほど述べた通りである。やはりここでも、抱腹絶倒的な笑いにある爆発性、ないしは爆発に伴う輝きが本質としてそこにある。
これも明々白々な事実のように思える。もう生きることに対して見間違うことはないのではないかと思えてくる。
白銀世界の輝き、赤レンガの家々の輝き、目の前のパソコンの輝き、パソコンを打つ手の輝き、遠くの空を飛ぶ鳥たちの輝き、そして彼らの糞の輝き。それらの輝きが見えないうちは、私たちの本当の人生は一向に始まらない。
目覚めてからが本当の人生の始まりであることを、一軒の赤レンガの家の煙突から湧き上がる煙が伝えている。
今日は極めて寒く、室内でもヒートテックを着る必要があるほどだ。普段は、コーヒーをカップ満タン(厳密にはカップ85%~87%の高さ)に注いでいるのだが、コーヒーが冷めるのを防ぐために、半分注いで、それを飲んでからまた半分注ぐことを試してみた。
すると、逆に冷めるのが早くなったように思えてしまい、それを踏まえると、カップ満タンに注いだ時の方が効用(満足度合い)が高かったのではないかと思えた。物理現象さらには人間の心的現象は本当に面白い。
そういえば、少し前に知人の方から、ユニクロから「極暖ヒートテック」「超極暖ヒートテック」なるものが販売されていることを聞いた。私が数年前に日本で生活していた一年において、そのようなものはなかったように思う。
少し気になったので、オランダにユニクロの店舗があるか調べてみたところ、アムステルダムに一店舗ほどあることがわかった。また、春に訪れる予定のパリやアントワープにも店があるようなので、両都市に訪れる時にそのうちの一店舗に立ち寄り、「極暖ヒートテック」「超極暖ヒートテック」のいずれかを購入しようかと思った。
さすがに問題ないとは思うが、ベルギー人もオランダ人のように大きいため、念のためアントワープの店舗を避け、パリの店舗で購入をした方がいいかもしれない。三月のフローニンゲンはまだまだ冬であるから、その時に購入しても全く遅くない。フローニンゲン:2019/1/23(水)10:35
No.1605: A Dance on a Winter Night
I began to read “Bela Bartok: An Analysis of His Music (2000),” which provides me with ample insights.
I’ll apply one of Bartok’s techniques in my near future. Groningen, 17:38, Thursday, 1/24/2019
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