時刻は午後の七時半を迎えた。たった今夕食を摂り終え、これから就寝までの活動に取り組んでいく。
今日も過去の日記の編集や日記の執筆、作曲実践、そして協働プロジェクトに関する仕事に取り組んでいた。幸いにも今日は一日中天気が良く、昼食前の買い物に出かけた際にはとても清々しい気分になった。
また、三時過ぎには近所のDHLの配達所に行き、ケンブリッジ大学出版から直接送ってもらった二冊の書籍“Serialism: Cambridge Introductions to Music (2008)”と“Serial Music, Serial Aesthetics: Compositional Theory in Post-War Europe (2008)”を受け取った。
久しぶりに河川敷のサイクリングロードを散歩していた時、昨年の今頃を思い出した。ちょうど昨年の今頃から、フローニンゲン大学での研究インターンが開始され、街の中心部のメインキャンパスではなく、郊外にあるキャンパスに歩いて通っていたことを懐かしく思い出した。
昨年の自分が何度も通った道を、今日改めて歩きながら、いろいろと感慨深い思いになった。道中、「道(タオ)」について思いを馳せないわけにはいかなった。
これからの人生で従事する一つ一つの事柄は、それ自体が道であり、そして無数の実践の積み重ねが究極的な道に繋がっていくのだと思う。散歩からの帰り道、時刻は夕日を拝むのに最適な時間帯になっていた。
そこで見た、赤紫色の夕焼けの美しさを忘れることはできない。美しい夕日が空に現れた時、いつも私はできるだけ仕事の手を止めて、ただぼんやりと夕日を眺めるようにしている。
夕日の出現時には夕日に意識を向け、以降はぼんやりと夕日を眺める。今日もふと、散歩の足を止めて、しばし河川敷の道にたたずみながら、暮れゆく夕日を眺めていた。
今日はこれから、一日を締め括る作曲実践をし、その後少しばかりゴッホの手紙を読んでから早めに就寝しようと思う。先ほど湯船に浸かっている時に、先日考えていた、現代社会の消費的行動とその在り方の問題について、またしてもあれこれと考え事をしていた。
先日は各種実践や学習というものが消費対象に成り果てていることを指摘しており、その中には芸術も含まれていた。芸術にも確かに外在価値(例:機能的有用性(芸術が心身にもたらす作用など))があるのは確かだが、多くの場合、芸術のそうした価値ばかりに目が向きがちであり、その価値を社会での成功に繋げるような形で消費していくような行動や在り方が目につく。
私たちは、芸術というものが持つその他の価値、つまり、内在価値を忘れてはならないのではないかと思う。芸術が何かに役に立つかどうかを議論するのではなく、芸術がそれとして持っている価値を忘れてはならないように思う。
そしてそうした内在的な価値を外在価値に還元してしまい、それを既存の物語における成功を獲得するために単に消費するようであってはならないように思う。先ほどはそのようなことをぼんやりと考えていたが、この点についてはこれからなお一層考えを深めていきたいと思う。
そして、そうした消費的風潮に風穴を空けるような手段を模索していく。フローニンゲン:2019/1/9(水)19:54