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3636. 発達に対する淡い期待と「発達的マゾヒズム」


ヨーロッパの冬は、本当に暗い。おそらく、多くの日本人が何か憧れのようなものを抱きがちなヨーロッパの国々は、ことごとく冬が厳しいのだと思う。それが現実だ。

暗い。今日も外が暗い。

今、コーヒーメーカーが一日分のコーヒーを一生懸命作ってくれている。その音は自分をどことなく励ましてくれる。

欧州で過ごす新たな一日がまた始まった。次から次へと新たな一日が始まることに対して、改めて驚く。望む望まないに関わらず始まる新たな一日。

昨日ふと、ゴッホの手紙や音楽理論に関する書籍、さらには芸術教育哲学に関する書籍に並行して、ヨルゲン・ハーバマス、ミシェル・フーコー、ロイ・バスカーの書籍を近々読んでいこうと思った。ハーバマスとフーコーの書籍は少し前に集中的に読んでいたのだが、バスカーの書籍に関してはまだ何も手をつけていない。

私が以前師事をしていたオットー・ラスキー博士や哲学者のザカリー・スタインもバスカーの哲学思想に精通しており、彼らが影響を受けたバスカーの書籍を私も読んでみようと思う。

先ほどもまた、インテグラル理論について日記を書き留めていた。言いたいことが次から次へと生まれてくるのはどうしてなのだろうか。それについても今、再度立ち止まって考えている。

それにしても、インテグラル理論を学び、統合的であろうとすることが、逆に統合的になることを遠ざけていくというのは、とても自己矛盾的な皮肉のように思える。こうした皮肉を乗り越えていくためには、今以上にたくましい知性と新たな意識の在り方が求められるのだが、それはすなわち、そうした知性や意識の在り方が体現された発達が必要だと述べていることに他ならず、そもそもそうした発達が起こらないことをここで問題にしているのだから、どうしようもないように思えてくる。

人間というのは私たちが思っている以上に発達しないものなのだ。そうした認識を絶えずどこかで持っておくことは不可欠のように思える。

そうした認識がなければ、発達という現象に対して過剰な期待を抱いてしまい、それが上記のような自己矛盾的な状態を生み出してしまう。その状態に自らで気づければいいのだが、それに気づくことができないのも、発達に対して過剰な期待を寄せていることと関係しているかもしれない。

発達に対して淡い期待を抱くことは、冒頭で言及したような、欧州の地に対して淡い期待を抱くのと似ているかもしれない。

実際に欧州の地に行って、生活をしてみるというのはどうだろうか。そうすれば、欧州で生活することの厳しさがわかるかもしれない。それがわかれば、欧州での生活も発達も、単に淡い期待で彩られたものだったのだということに気づけるかもしれない。

ウィリアム・ジェイムズが述べるように、物事を直接体験するということは、何にも増して非常に重要なことである。欧州で生活することであれば直接体験を積みやすい——誰でもできる——のだが、発達に関しては自分が憧れを抱くような発達段階を実存的に経験することが難しいというのは難点だ。

実際のところは、過去にそうした高度な段階に到達した人たちの体験が記述された文献を読んでみると、そこには過酷な実存的課題が存在していることがわかるはずである。また、このような現代社会において、高度な発達段階に到達している人は周縁に追いやられ、マイノリティーとしての実存的苦悩のようなものを抱えるようになるだろう。

それでも高度な発達段階に漠然とした憧れを抱き続けるというのは、発達現象に関してよほど無知であるか、歪な「発達的マゾヒズム」を抱えているからなのかもしれない。フローニンゲン:2019/1/5(土)07:44

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