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3626. ソーシャルメディアとヒロポン


時刻は昼の12時半を過ぎた。ちょうどつい先ほど昼食を食べ終わり、これから午後の活動に入る。

今日も午前中の活動は充実していた。特に、ケン・ウィルバーの書籍の監訳の仕事は順調に進み、分量の多い第五章のレビューが着実に進んでいる。

午後からは過去の日記を少し編集し、その後に作曲実践を行う予定であり、夕方から再び監訳の仕事に取り掛かる。

昼食を摂りながら、ソーシャルメディアを活用しなくなったおかげで、諸々の煩わしさから解放され、日々がより充実したものになっていることについて考えを巡らせていた。そうしたことを考えながら窓の外を眺めていると、昭和の初期に強壮剤として売られていた「ヒロポン」について思い出した——私はその時代には生まれていないが。

これは、メタンフェタミンを主成分とする覚せい剤の一種であり、現在では使用が禁止されている。当時、ヒロポンを服用して異変を感じた人々がいたのだろうか、1950年代になってそれはすぐに発売禁止となったようだ。

私は、数年前にはソーシャルメディアを活用していたが、ある時からその活用に際して違和感を感じるようになった。厳密には、それを活用している時の普段の自分の心の有り様と日々の精神生活の質に対して疑問を抱くようになったのである。

そうした疑問を感じるようになってから、私はソーシャルメディアの活用を止め、今も一切のソーシャルメディアを使っていない。現代社会で用いられているソーシャルメディアはどことなくヒロポンのようではないだろうか。

現代人は、どこかソーシャルメディアによってもたらされる刺激に慣れすぎている。慣れすぎているというよりも、そうした刺激がなければ生きていけないような心身が構築されてしまっているように思える。

そうした状況が、人々を四六時中ソーシャルメディアを活用することに仕向けているように思えてくる。この人生がソーシャルメディアを活用するためにあるのだと考えるのであれば、それを無配慮に活用するのもわからなくもないが、人々はそのように考えているのだろうか。

彼らの生き方を見ている限り、そのような考え方を持っているのだろう。あるいは、そうした考えが浮かばないほどにソーシャルメディアの刺激に埋もれてしまっているのだろう。

ソーシャルメディアが私たちにもたらす刺激について考えていると、それはまるでヒロポンのようだ。端的には、覚せい剤的だと言えるかもしれない。

仮に、ソーシャルメディアが人々に精神的な真の目覚めを与えているのであれば、その使用も社会的に意義があるのだろうが、事態は真逆のように思える。あるいは、それは人々を覚醒させるというよりもむしろ、まるで社会的に構築された夢の世界へ人々をさらに深くいざなう睡眠薬のようだ。

この現代社会は本当に奇妙だ。覚せい剤と睡眠薬でまみれた世界に自分たちが生きていることに自覚的になれないというのはなぜなのだろうか。

昨夜も私は違う文脈の中で、「本当に大丈夫ですか?」という言葉を現代人に対して投げかけていた。それについてはまだ日記に書いておらず、単に昨夜、それを独り言としてつぶやいていた。

大丈夫なのだろうか?現代人は本当に大丈夫なのだろうか?

「廃人」とは本来、病気や障害等によって、普通の人間生活を営めない者のことを指すようなのだが、廃人であること、ないしは廃人に向かっていく生き方が、普通の人間生活であると見なされてしまっているこの現代社会は本当に大丈夫なのだろうか?フローニンゲン:2019/1/3(木)13:01

No.1539: Floating Scattered Clouds

Each scattered cloud represents a specific soul.

I came up with such an image in my mind. Groningen, 09:51, Friday, 1/4/2019

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