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3590. 近視眼的な現代人とくつろぐことの重要さ


時刻は午後の七時半を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終え、就寝に向けて本日の最後の活動に従事していく。

結局ここ一週間近く、スクリャービンの曲をずっと聴いている。今もスクリャービンのピアノ曲が書斎に鳴り響いている。

スクリャービンの曲に対して、離れようにも離れたくない妙な気分を覚える。もう数日間ほどスクリャービンの曲を聴き続け、納得したところで他の作曲家の曲に移ろうと思う。

今日は午後に、モーツァルトの変奏曲に範を求めて作曲実践を行った。改めて、モーツァルトの遊び心に感銘を受け、同時にモーツァルトが持っていたリズム感に驚かされた。

夕食時に聴いていた音楽理論のポッドキャストは、ちょうど楽譜を初見で読み解くことをテーマにしたものだった。モーツァルトの楽譜を眺めていてもいつも興味深く思うのは、その独特なリズムにある。

それは即、モーツァルトの固有のメロディー観にもつながってくる。明日もモーツァルトに範を求めるだろうから、その時にはモーツァルトが持っていたリズム感に迫っていくために、分析的な視点を持ち、同時に自分の感性を積極的にオープンなものにする形でモーツァルトの曲に触れようと思う。

今朝は非常にゆっくりとした起床であり、その後もくつろいだ形で一日の活動を進めていった。改めて、肩肘を張らずにリラックスして生きることの大切さを実感した。

日々を絶えずくつろぎの中で過ごしていくこと。それをこれからも忘れないようにしたい。

どうも現代人は力を入れすぎた生き方をしているように思えて仕方ない。力を入れすぎることによって、自己及び自己を取り巻くものに対して近視眼的になっているのだと思う。

日々の生活をくつろいだ形で過ごすことができていないから、常に諸々の対象と同一化してしまい、本質を見失ってしまうのだ。

冷静にふと自己を省みるゆとりや、自分が当たり前だと思っている諸々の事柄を改めて冷静に見るゆとりが必要だろう。日々私たちが躍起になっていることを改めて冷静に眺めると、それらが随分と馬鹿げたものであることに気づくだろう。

例えば、一度冷静になり、今から500年後の人類の視点に立ってみれば、現代人がお金のために躍起になって働いていることがおかしいと気づくだろう。もうその時代には現代のような形でお金が存在していない可能性が高く、多くの人たちがそろそろカネの虚構性に気づいているだろう。

そんな彼らの視点に立てば、カネの虚構性に盲目的であり、毎日あくせくとカネのために働いている現代人を見て、滑稽だと思うに違いない。

その他にも例えば、500年後の人類から見れば、「経営戦略」なる野蛮な言葉が企業社会にあったらしいことを知って驚くだろう。彼らの視点から見れば、現代の企業が躍起になって立案しようとする経営戦略なるものが、今から500年前ほど前の戦国時代に行われていた国取り戦略ほどの野蛮さ、ないしそうした戦略を立てなければならない企業社会の未熟さと、それを実際に立てることに対して何ら違和感を覚えない人々の未熟さに気づくだろう。

人々は結局狂気の中にいるのだ。くつろぐことを知らず、虚構の対象物を追いかけることに対してあまりにも躍起になりすぎている。今自分が躍起になっていることに対して、さらには自分が盲目的に邁進していることに対して一瞬でもいいから立ち止まることができたら、自分が従事してきたことの滑稽さに気づくと思うのだが。フローニンゲン:2018/12/27(木)20:00

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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