昨夜は合計で10時間ほど寝たこともあり、今日の心身の状態は極めて良好であり、活動に向けたエネルギーで溢れている。とはいえ、繰り返しになるが、活動の許容量を超えない範囲で無理のない形で今日の活動に従事していく。
気がつけば、今日はまだ日記しか書いておらず、気がつけばこれでもう4つ目の日記となる。時刻はまだ午前九時半だというのに。
今朝方見ていた夢についてまだ振り返っておらず、今から少し振り返っておきたい。今朝方も印象に残る夢を見ていたのだが、記憶が断片的なものになりつつある。
夢の中で私は、実際に通っていた中学校の教室の中にいた。どうやら、今から教室の掃除が始まるようであり、生徒たちは皆、自分の机を教室の後ろに運んでいた。
なぜだかわからないのだが、私の机を友人が運ぼうとしている様子を見て、私はそれを止めようと思った。確かに私の机を運んでくれるのは有り難いが、机の中には大事な洋書が何冊も入っており、机の持ち方によってはそれが地面に落ちてしまう可能性があったからだ。
私は友人にお礼を述べ、自分の机は自分で教室の後ろに運ぶことにした。すると、教室の前のドアから、中学校二年生の時に国語を担当していた先生が入ってきた。
今から掃除ではなく、国語の授業を始めると先生は言う。生徒たちは一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、再度自分たちの机を元の位置に戻し、授業の開始に備えた。
何事もなかったかのように授業が始まり、先生は授業の最初に冗談の混じった小話を始めた。私はその先生の授業をいつも面白いと思っており、その小話も面白かった。
その後、先生は数人の生徒に色々と質問を投げかけた。質問の内容は忘れたが、先生の質問に対してある生徒は、「それは、“That’s fantastic”でしょうか?」と答えた。
その答えに先生は満足そうな表情を浮かべて、「その通り!」と述べた。しかし私は、確かに“That’s fantastic”という英語の表現は決して間違いではないのだが、実際に米国で生活する中でアメリカ人がその表現を述べていることは極めて少なかったことについて考えていた。
繰り返すが、その表現は決して間違いではなく、現代でもそれは使用されうる表現である。だが、それはかなり誇張表現と述べたらいいだろうか。
よほど素晴らしいと思うような出来事に遭遇しない限り、“That’s fantastic”という表現をアメリカ人が口から出すことはないように思っていた。確か、一度私がその表現をアメリカ人の友人に述べたとき、その友人は反射的に、「それは大袈裟だよ」というような笑顔を浮かべていた。
私はその点がやはり気になっており、挙手をしてその点を先生に指摘した。先ほどまでは面白おかしく授業をしていた先生の表情が一変し、真剣な顔で私の指摘に対して意見を述べ始めた。
そこからは先生の意見に対して、私は冷静に反論を積み重ねていたのだが、あるところからどうも反論することが馬鹿馬鹿しく思えてしまい、教室を後にしようと思った。その前に、先生のところに行き、顔面を思いっきり殴ったところで夢から覚めた。
夢から覚めた瞬間に、先生の顔面を殴ったのと同様に、枕を思いっきり殴っている自分がいた。
今朝はその他にも印象に残る夢を見ていたのだが、それらについてはもう思い出すことができない。一日の活動の中で、何かをきっかけにして思い出すことができたら、断片的でもいいので書き留めておこうと思う。フローニンゲン:2018/12/27(木)09:48