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3586. 実践の最適な量を見出す大切さ


つい今しがた、今日一日分のコーヒーを入れ始めた。コーヒーメーカーが懸命に働く姿が見える。その動きに合わせて、コーヒーのよい香りが書斎の方に漂ってくる。

先ほど、咀嚼許容量について考えながら、ゆっくりと対象と向き合い、その経験を咀嚼していくことの大切さを書き留めていた。日記を書き終え、保存先のフォルダに文章を移そうとした時、ちょうど昨日の最後の日記のタイトルが、「小さなものを積み重ねていく大切さ」となっていた。

昨夜の段階でも、やはり昨日の日記の編集が過度だったことを自覚していたようだ。厳密には、私は一昨日の夜の段階で薄々それに気づいていた。

過去の日記の編集作業も読書や作曲と同様に、没入感をもたらすものであることは間違いない。しかし、他の実践と同様に、やはりそれに従事する時間には限度があるように思う。

没入状態が継続している限りにおいては、おそらく人間は一切の疲労感を感じないのだろう。その際に脳から分泌される物資は、私たちに疲労感を感じさせず、むしろ逆に快楽を感じさせるようになっているように思う。

だが、仮に没入感からひとたび離れると、それまでの行為に快楽を感じることは難しくなり、その状態のままで実践を継続していると、必然的に疲労感を生み出してしまうことになりかねないのだと思う。

過去の日記を久しぶりに編集し始めた私にとって、その咀嚼許容量、ないしは疲労感を感じさせず没入感が持続する最適な量を見極めることがまだ難しかったのだと思う。例えば、現在において日記の執筆であれば、最適量は毎日4本から5本ぐらいの記事を書くことであり、6本まではかろうじて許容量に収まる。

ただし、7本を超え、一日に10,000字近く日記を書くことになると、それは許容量を少々越えてしまっている感覚がある。そのため、普段は4本から5本程度の日記を書くことに留め、時折6本ほど書くことがあるような状況だ。

作曲に関しても同様に、一日に3曲から4曲作ることが現在の私の最適な量であり、2曲だと物足りず、逆に5曲だと作りすぎの感じがする。こうした自分にとっての最適な量は、実践を通じて見出していく必要があり、実践の段階においてそれが変化することにも注目する必要があるだろう。

日記や作曲に関しても、例えば数年前においては今のような量を毎日生み出すことは不可能であり、自分なりに最適な量を実践を通じて発見していったというプロセスがある。ここでも、発達や学習における個別性という現象が見られる。

今後の人生において、また新しい実践に従事し始めることは当然あるだろうし、その際には最適な実践量を見極めながら、徐々に実践量を増やしていくことが賢明だ。また、既存の実践がより深まっていく過程の中で、実践量の見直しを迫られることもあるだろう。

とにかく、無理のない範囲で毎日着実に実践を積み重ねていくことが大切である。ここ数日間の体験を通じて、また自分なりに小さなものを積み重ねていくことの大切さとその方法がより明確なものになったように思う。フローニンゲン:2018/12/27(木)09:11

No.1518: Mercifulness in the Early Morning

I had a couple of memorable dreams last night.

At this moment, I’m feeling mercifulness in the early morning. Groningen, 09:36, Friday, 12/28/2018

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