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3554. 浅薄さの氾濫する現代社会


時刻は午後の七時半を迎えた。たった今、夕食を摂り終えた。

夕方から雨脚が強くなり、今も雨が降り続けている。闇夜の世界に雨が降り注ぐ様子は幾分趣深い。

今日はそれほど気温は低くないはずなのだが、日中足元から冷える感じがした。少しばかりヒーターの温度を高めにして一日を過ごした。

本日は作曲実践を十分に行い、それでいて教育哲学に関する探究も行った。また、計画通りに作曲理論のまとめノートを読み返すことも行っていた。

本日読んでいた教育哲学に関する書籍について改めて思い出している。中でも、パウロ・フレイレの言葉の中に、私たちを縛るものからの解放は、現代社会に対する内省とそれを変容する実践によってもたされる、という類のものがあった。

人はよく自己内省を行うことによって自らを縛るものから解放されようとするが、おそらくそれでは不十分だと言えるだろう。フレイレが指摘するように、私たちを縛っているものは自己及び自己を構築している社会そのものであるのだから、自己のみならず、内省の矢を社会に向けていくことは不可欠である。

そして、解放と変容は表裏一体の関係にあるがゆえに、自己を解放していくためには、自己及び社会の変容が不可欠となる。そのようなことを考えていると、世の中で行なわれているほとんどの内省実践は、自己に解放をもたらすというよりも、逆に自己に新たな束縛をもたらすものに成り果てているのではないかと思ってしまう。

さらには、本来自己を変容させていくことを目的にしている内省実践が、気がつけば自己肥大化現象を生み出すものに成り果ててしまっていることも気がかりだ。内省実践を懸命に行っている多くの人たちを見ていると、そうした新たな自己束縛、そして自己肥大化現象に陥っているように思えてくる。この社会は本当に本末転倒なことが多い。

夕方の日記の中で、フレイレが意識の発達モデルを提唱していることについて言及していたが、書籍の中でもう一人取り上げられていたジョン・デューイも発達理論に通じる思想を持っていたことに改めて気づく。

そもそも、デューイはジョージ・ハーバート・ミードと親交があり、ミードの発達思想に少なからぬ影響を受けているのだろう。本日読んでいた書籍の中で、デューイは、教育支援者の重要な役割の一つとして、学習者の経験と学びの構造を把握することを挙げており、これはまさに学習者の発達段階を把握することの大切さを説いているものだと言える。

教育者、さらには教育研究者の中には、発達段階という概念を頭ごなしに否定する人たちがいるのだが、彼らは学習者の経験と学びが持つ構造を否定しているということになる。経験や学びのプロセスに存在する構造的な特性を把握せずして、一体どのように学習者に関与していくことができるのだろうか。

発達段階を否定する教育関係者は、学習者を「ありのままに見る」ことを強調する傾向にあるが、経験や学びが不可避に持つ構造特性を見過ごしてしまうことはありのままに見ることなのだろうか、と疑問に思ってしまう。

ここでも浅薄な対象理解がなされているように思える。「ありのままに見る」という言葉は聞こえはいいのだが、物事のありのままを捉えることは常に至難の技であり、それはほぼ不可能である。

ありのままに学習者を見ることを主張する人たちは、自らのその言葉に囚われる形で認識のレンズが曇り、結局学習者を限定的な視点でしか見ることができなくなってしまっているように思える。そこに発達理論の観点が欠けているというのは、まさに限定的な視点で対象を見ていることの表れだろう。

現代社会は、いかなる分野においても浅薄さが氾濫している。窓に打ち付ける雨を眺めながら、そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2018/12/20(木)19:53

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