時刻は午前八時を迎えた。空がダークブルーに変わり、もう少しで夜が明けそうだ。
先ほど突然雨が降り出し、今はまた雨が止んでいる。一日の始まりを静かに祝いたいと思う気持ちに包まれる。
昨夜就寝前にふと、今年客員研究員として大学に所属しなかったのは、作曲理論を集中的に学ぶためだったのではないかと思った。当初の予定では、米国の大学に客員研究員として所属することを考えていたのだが、条件が合わず、その話は白紙となった。
仮に研究員として大学に所属していたら今のような生活はなかったように思える。日々の探究活動と創造活動をこれだけ旺盛に取り組むことができているのは、今年もオランダに残ったからだと思う。
やはり人生の一つ一つの出来事には、何かしらの意味が内包されているようだ。
今日はこれから、作曲理論の学習に取り掛かる。昨日は作曲理論の学習をしなかったためか、今日はいつも以上に学習に取り組む情熱に溢れている。
作曲理論を学習することに合わせて、午後には作曲実践も行っていく。画家が過去の偉大な画家の絵を参考にして絵を描いてみることによって、画法を徐々に身につけていくように、過去の偉大な作曲家の曲を参考にしてひたすら曲を作っていく。
これを少なくともここからの数年間継続していく。そうした修練の先に、自分なりの作曲語法が確立されるだろう。
画家について言及したところでふと、そういえば昨日、絵画では描いた線がミスだとみなされることはあまりないが、作曲上は一つの音符の置き間違いが明確にミスとみなされることがよくある、ということについて考えていた。音楽理論が数学的な厳密さを求めているからこうしたことが起こるのだろうか。
私が気になっていたのは、絵画の技法にも理論体系があると思うのだが、それがどのような性質を持っているものなのかということだった。どうも音楽理論とは性質が異なるように思えてくる。
ここ最近音楽理論を学びながら思うのは、これまで作ってきた曲、そして現在作っている曲には、何かしらのミスが内包されている場合が多いだろうということであり、音楽理論の知識がまだ脆弱であるため、そうしたミスに気づけないでいることだ。
一方で、確かに音楽理論の観点からミスに思えるものの大半は本当にミスなのかもしれないが、それがミスではないとみなされるケースもあるのではないかと思う。それは、各人の美的感覚に通じるテーマであり、音楽理論上はミスだとみなされる場合においても、それが響きの美しさを持っていることも十分にあり得る。
理論の例外というのは、一つの音を取り巻くダイナミックな文脈によって生まれるものなのかもしれない。基本的に音楽理論では、響きが汚くなってしまう音を生み出さないようにすることを原則に掲げているが、音の響きというのは、言葉と同じように常に文脈によってダイナミックに変化するものであるから、音を取り巻く文脈にも敏感になっていく必要があるだろう。
おそらく、そうした感性を育まなければ、理論の外に出て自由自在な境地で曲を作れるようには一生ならないだろう。そのようなことを思う。フローニンゲン:2018/12/10(月)08:17