今朝は五時過ぎに起床し、五時半を迎えたあたりで一日の活動を始めた。今日から新たな週を迎えることになる。今年も残すところ、あと三週間となった。
昨日は、おそらく年内で最後になるだろう接心を行った。三時間ほど座禅をし、心身を整えることを行った。
昨日の座禅中には、何か大きな気づきや発見を得ることはできず、その代わりに静けさに終始包まれていた。長時間座ることによって、思考がクリアになることは確かなようだということにも気づいた。
座禅を終え、少し休憩をしていると、やたらと言葉が湧いてくるような感覚があったので、文章を書き留めておいた。また、言葉を生み出したいという衝動のみならず、曲を作りたいという衝動も高まっていたので、作曲実践も行った。
昨日は座禅をしていたこともあり、また午前中にはその他に取り組むことがあったので、作曲理論はあえて一切学習しなかった。一方、今日は作曲理論を旺盛に学習していこうと思う。
一日ほどあえて休憩を入れることによって、今日からは再び集中して作曲理論の学習に取り掛かることができるだろう。作曲理論の学習は、確かに自己教育の側面を持つが、それは自分のためだけに行っているのでは決してないように思えてくる。
以前の日記で書き留めたように、自分が何かを学習することは、自己を超えて、即他者や社会に何らかの関与をするためであることがわかる。学ぶのは主体としての自己だが、その学びは自己の所有物になるというよりも、広くこの世界に共有されるためにあるのだと思う。
集中的に座禅をした日の夜は夢を見ないことが多かったが、今朝方はいくつかの夢を見ていた。夢の中で私は、実際に通っていた中学校の教室にいた。
そこでは国語の授業が行われていた。厳密には、中学校二年生の時の国語を担当していた教師が、道徳の授業か何かをしていた。
教師が道徳上のあるテーマを黒板に書き、そのテーマについて一方的に話し始めた。そこである生徒が挙手をし、教師に質問をした。
生徒:「先生、その考えは今の社会では難しいのではないでしょうか?今の世の中は、みんなバラバラであり、他人の親が別の子供の面倒を見るなんて難しいのではと」
教室にいた生徒の中で、小学校時代からはっきりと自分の意見や質問を教師に表明できる数少ない友人の一人がそのように述べた。彼の質問に対して、教師は一瞬間をおいて、よく分からない返答をした。
教師の返答の出だしからすぐのところで、私はこの教師は友人の問いの意味を全くわかっていないと思った。そこで私は挙手をした。
私:「今の質問は、現代社会の関係性の希薄化の問題を指摘したものだと思います。つまり、先生が述べていた事柄は、一昔前の長屋文化的な家族構造においては通用したことだと思いますが、現代社会に広がっている人間関係の構造を考えると、その考えはあまり当てはまらないのではないか、ということを彼は言いたかったのだと思います」
「そういうことだったのか」というような表情を教師は浮かべ、そこからも何か言葉を足そうとした。そうした様子を見ていると、教師という者は何か生徒に対して教えなくてはならないというような未熟な考えをその教師が持っていることが読み取れたらし、何よりも、どうして彼が述べた質問が示唆する社会構造が一瞬にして理解できないのかに対して、私は理解に苦しんだ。
そこで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2018/12/10(月)06:09
No.1471: Winter Sunshine
Fortunately, it’ll be sunny all day long today.
The sunshine in the early morning is very pleasant. Groningen, 10:33, Tuesday, 12/11/2018