毎日が本当に充実した形で過ぎていく。一見すると日々は何の変哲もなく過ぎているように思えるのだが、そうした変哲のなさが逆に尊いもののように心の眼に映り、そしてそうした中で、淡々と水の流れのように自らのライフワークに取り組むことが充実感の源になっているように思う。
欧州での三年間を振り返ってみると、最初の年は、爆発的な充実感と寂寥感が交互にやってくるような不安定な状態に自分が置かれていたように思う。北欧にほど近いフローニンゲンの気候を初めて経験したことも影響してか、気候の厳しさに精神が随分と影響を受けていたように思う。
一方翌年は、精神の本質的な特性として変動性が存在しているため、この年も精神に変動があったことは確かだが、そうした変動さえも超越するような感覚の中にいたように思う。そのためか、爆発的な充実感というよりも、自分の存在の奥深くに染み込んでいく類の新たな充実感が芽生え始め、寂寥感を感じることはほとんどなかったように思う。寂寥感を生み出す何かが静かな充実感に浸されているような感覚があった。
三年目を過ごす今においては、今度は充実感が内側に染み込んでいくだけではなく、同時に自分の奥底から充実感が湧き上がっていく現象が起きている。それは真の内発的な充実感だと言えるかもしれない。
こうした外から内へ、内から外へと広がっていく二種類の充実感と一体となっているのが今の私の姿だと表現していいように思える。今後の人生において、もう一秒たりとも自らの充実感と離れることはないだろう。なぜなら、今ようやく自己が自己そのものを超出し始め、本質的な自己が生み出す真の人生を歩み出したからだ。
昨日、先日に行われた幼馴染の親友の結婚式の余興動画や写真を、取りまとめ役の親友から送ってもらった。昼食後にそれらを眺めていると、とても暖かい気持ちになった。
自分がどれほど素晴らしい友に恵まれているかを改めて思った。一方で、ここでも色々と観察をしていたのだが、どうも同い年とは思えないような風貌に変わってしまっている友人も何人かいた。そこで若さについて考えていた。
心の若さと身体の若さについては、何かしらの相関関係があるかもしれない。心の若さというのは精神的な未熟さを表すのではなく、むしろ逆であり、精神的な成熟と相まって実は心の若さも増大するのではないかと最近考えている。
精神的な成熟の歩みを止めてしまうことは、下手をすると心の若さを喪失することにつながってしまうのかもしれない。そして心の若さの喪失は、身体の老化に拍車をかける。
もう一つ重要なことは、この人生において取り組む自らのライフワークが何か明確になっているか否か、そしてそれに日々取り組むことができているかにあるように思う。端的には、何の強制力も義務感もなく、自分の好きなことをして日々を過ごしているかどうかということである。
やはり自分の好きなことに毎日取り組んでいる人は心身の若さが保たれているように思う。それは保つというよりも、より若々しくなるという可能性さえも否定できない。
今の自宅には身体年齢を測れる体重計はないが、日本に一時帰国した際には身体年齢を測定するようなことを行っている。今でも体脂肪の値などを含め、身体年齢が毎回16歳と表示されるので、いっその事、心の若さを16歳ぐらいに設定して日々を生きるようにしている。
そこからふと、今後の人生においては、実年齢——これも単なる構成概念であり、それに縛られることは馬鹿らしいのだが——を単純に半分にした年齢の感覚で生きてみるという実験をしている。そうすると、もうしばらくは10代の感覚で生きることが可能になる。
この実験を死ぬまで続けてみると、人間の心身にどのような影響を及ぼすのか非常に気になるところである。自分の人生を通じて、こうした些細な実験を無数に行っているのだが、それらを検証しながら生きていけることも、この人生における一つの楽しみだと感じている。フローニンゲン:2018/11/24(土)06:50
No.1440: A Wave of Consciousness
This Sunday half ended.
From now I’ll study music theory for an hour and start to work for a joint project with a Japanese corporation. Groningen, 15:22, Sunday, 11/25/2018