今日は昼食を摂ることなく、昼から午後の五時まで、およそ四時間半ほど座禅をしていた。最初の四時間はショパンの曲を聴いており、残りの30分はモーツァルトの曲を聴きながら、静かに座していた。
四時間半ほど座っている最中に、いろいろな知覚体験をした。それらについて逐一全てを書き留めておくことをしないが、総じてそれらの知覚体験は、極めて意味深長なものであった。
それらの気づきは言葉にならないものも混じっており、それらはイメージや音として知覚されていた。あえてそれらの気づきに言葉を与えていくとすれば、最大の気づきは、自分の人生のみならず、全ての生命の人生は宇宙の絵画であり、宇宙の音楽であるということだった。
しかも、それらの絵画と音楽は、決して静的なものではなく、宇宙の進化と歩調を合わせるかのように動的なものである、という気づきを得ていた。この気づきは幾分形而上学的なものに響くかもしれないが、それは原始的な(primitive)形而上の気づきではなく、形而上を超える形而上的な気づきだと言えるだろう。
四時間半ほど座りながら、自分の内側へ気づきの意識を向けていただけなのだが、自分の脳は随分と稼働していたようだ。しかも、普段使わない脳の部分も含め、脳全体が稼働していたように思う。
これまた奇妙な気づきとして、自分の脳そのものが、実は宇宙全体の絵画そのものであり、同時に絵画の中の一つの色であり、さらには宇宙全体の音楽そのものであり、同時に音楽の中の一つの音符であるという気づきを得た。前述の気づきと全く同様の事柄を示唆する気づきであった。
不思議なことに、自分が何か意識的に取り上げたいテーマをふと意識上に上げると、そのテーマに対して、普段の自分では考えられないような回答が得られるという事態に遭遇した。次から次へと、自分の人生の中で生起している主題や、私が気にかけているこの現実世界の課題などについて意識上に上げていった。
すると、恐ろしいほどに深く鋭利な回答が立て続けに得られるという知覚体験をしていた。それが四時間半ほど続いた。
このように長時間座禅をしていると意識がどんどんと深まり、特殊な意識状態の中に自分がいたことを知っている。それにしても、そうした非日常的な深い意識状態の中で、自分の脳と意識があのように働くというのは改めてとても興味深い。
今、自分の脳と意識について言及したが、そういえば座禅の後半で、自分の知性というものが、やはり宇宙の絵画と音楽の全体かつ一部であるという気づきを得ていた。さらには、自分の知性を働かせるというのは結局のところ、宇宙の絵画に一つの色を加えること、さらには宇宙の音楽に一つの音符を加えることなのだ、という気づきを得ていた。
その気づきを得たとき、私は大いに笑っていた。座禅の随所随所でこうした笑いが込み上げてくる瞬間が何度もあった。
そして、そうした笑いそのものが、宇宙の絵画の全体かつ部分であり、宇宙の音楽の全体かつ部分であるということを知ってさらに笑った。
今日の座禅体験は一つ自分にとって忘れられないものになった。明日から、いや今夜からの自分の活動の一つ一つの意味と意義が、また新たなものに変容を遂げようとしていることに気づく。フローニンゲン:2018/11/17(土)18:10