時刻は午前七時を迎えた。この時間帯のフローニンゲンはまだ闇に包まれている。もう30分ほどしたら、徐々に闇が晴れてくるだろう。今日は天気が良いようなので、昼食前に近所のスーパーに買い物に行きたいと思う。
昨夜ふと、現在毎日のデッサンに用いている色鉛筆が水彩のものなので、近々絵筆を購入し、これまで描いてきたデッサンに水を含ませてみたくなった。
昨日、シュタイナー教育に関する書籍を読んでいた時に、シュタイナー教育では水彩画を描く実践があり、実際の作品をいくつか見ている時に、自分も水彩画を描きたくなった。絵の具を使うと色々面倒だと思ったので、水彩の色鉛筆で描いた絵に水を含ませていくための絵筆を購入しようと思い立った。
今日は街の中心部に行く用事がないが、明日か明後日には行きつけのチーズ屋に立ち寄ろうと思っていたので、その時にチーズ屋の近くにある文房具屋に足を運ぼうと思う。作曲ノートを見返してみると、159曲目以降、作った曲から喚起される感覚を色鉛筆で絵として表現していたため、およそ450ほどの小さな絵を描いてきたことになる。
実際には、作曲ノートではなく、普段の学術研究用のノートにもいくつか絵を描いていたため、数としてはもう少し多いものになる。いずれにせよ、これまで描いてきた絵に水を含ませることによって、どのような変貌を遂げるのかがとても楽しみだ。色使いがより鮮やかなものになるであろうことを期待する。
今朝方の夢について再度振り返っていると、先ほど書き留めた夢の続きの場面について思い出した。次の夢の場面では、私は小学校時代の校庭にいた。
そこには全校生徒が集まっており、なにやら運動会の練習をしているようだった。全校生徒がいくつかの列に並んでいる時、どうも私は一つの列に並ぶことが嫌だったので、列からはみ出し、右に自分だけの新しい列を作ろうと思った。
そこに並んでいるのは私だけであり、それに気づいた先生が私に話しかけてきた。先生は特に怒っている様子もなく、ひとことふたこと、私に何かを述べた。
それを聞いた時、運動会でどうやら自分は重要な役割を担っていることがわかった。先生の話している事柄の意味は理解できたが、自分の列を新たに作ったことに私は満足せず、運動会よりも他にやりたいことがあったので、全校生徒が整列している様子を脇目に、私はその場を後にすることにした。
どんな役割か定かではないが、運動会の進行に私の存在はカギを握っているようだったのだが、運動会の存在意義そのものが私にとっては疑問であったため、私は自分のやりたいことを優先するために、その場から静かに立ち去った。
全校生徒の視線や先生たちの視線を背中に感じながらも、巨視的な観点で見ると、運動会に参加するよりも、自分がやりたいことを優先することの方が、その場にいる全員のためでもあると私は思っていた。しかし、それを説明しても誰も理解できないだろうと思っていたこともあり、私は黙ってその場を後にした。
ゆっくりと校庭から去って行こうとすると、先生が「追いかけて!」と、何人かの生徒に対して叫ぶ声が聞こえた。その声が聞こえた時、私は宙に浮き上がり、追ってきた生徒たちの手の届かない場所に避難した。
避難した場所は、この現実世界に錯綜的に存在している複数の時間が入れ子構造になったものだった。それは、白い光の束の構築物として宙に浮かんでいた。
私はその構築物のてっぺんから、地上の様子を眺めていた。私を追ってきた生徒たちは、地上で私のことを探しているようだった。
その様子をしばらく眺めながら考え事をしていると、追ってきた友人たちとは少しだけ会話をしてもいいように思えた。そのため私は、時間が入れ子構造になった白い光の束の構築物から降りていく決心をした。
地上に降り、私の姿が見えた友人たちは嬉しそうな表情を浮かべており、私もそれを見て嬉しくなった。
今朝方はそのような夢も見ていた。今朝方の夢に限ったことではないが、私が見る夢の多くは、小中高時代の何かしらの記憶と紐付いている。
夢の中に登場する人物の多くは、小中高時代の友人であることにも気づく。それらの時代に見たこと・体験したことの影響が途轍もなく大きいことに気づかされる。
そこで作られた記憶、さらにはそこで作られた自己のいくつかの側面とは、今後も夢を通して向き合っていく必要があるだろう。それらと向き合っていくことは、今後長く続く実践になりそうだ。フローニンゲン:2018/11/14(水)07:36
No.1411: Skin of Morning Light
Peaceful morning light is shining on the city of Groningen.
It is very tender and radiant. Groningen, 08:46, Thursday, 11/15/2018