時刻は午前11時を迎えた。昨日と異なり、今日は快晴であり、風もほとんどなく、とても穏やかな一日である。
早朝、息を呑むような美しさを持つ朝焼けを見た。薄い雲に朝日が反射し、それが赤紫色に輝いていたのだが、これまであまり見たことのない色であったため、しばらくその光景を眺めていた。それは今から数時間前のことである。
これまでのところ、午前中はロジャー・ペンローズの二冊の書籍に目を通し、その後、ケン・ウィルバーの書籍“The Religion of Tomorrow (2017)”に目を通していた。特に、ウィルバーの書籍の注記を読み進めることを行っていた。
ウィルバーの発達理論は、ロバート・キーガンやスザンヌ・クック=グロイターの発達モデルと同様に、意識の重心という発想に重きを置くものだと思っていたのだが、注記をよくよく見ると、意識構造を「確率的な波」だと見なしていることがわかった。
以前からその言葉をウィルバーが用いていることは認識していたが、ふとしたきっかけで今日その意味が掴めた。この概念はもちろんウィルバーの推論的なものなのだが、それが意味することは、私たちの意識構造は主たる段階の前後を含めて、まるで波のように自由に動く余地があるということだ。
キーガンやクック=グロイターの発達理論においては、彼らは意識の重心という言葉を明示的には用いていないながらも、私たちは一つの発達段階に重きを置き、それを通じてこの世界を生きていると想定している。
ウィルバーが意識構造を確率的な波だと見なしているのは、置かれている環境がまるで確率のように様々に変化するのと同様に——あるいはそれに応じて——、私たちの意識構造も様々に変化することを念頭に置いているからのようだ。
本書の中でも、ウィルバーは意識構造と意識状態は不可分に結びついていることを指摘しており、「確率的な波」という考え方は、どちらかというと意識状態の特質に当てはまるように思いがちだが、意識構造は意識状態の性質と密接に関係しているがゆえに、まるでそれが意識状態のように変化する点を認めている。
一方で、ウィルバーの発達理論は、意識の重心という発想に縛られたものではないが、その考え方を認めているのは確かだ。しかし、ウィルバーの認識は、キーガンやクック=グロイターたちの考え方と若干異なっており、意識の重心というのは、現在の自分の意識段階そのものというよりも、その段階以下の段階特性を認識する範囲を規定するものだと見なしている。
端的に述べると、意識の重心は、自分が認識できる意識段階の範囲を規定するものとして存在しているとみなすのがウィルバーの考え方だということが見えてきた。この点については注記の中で議論されているように、かなり細かな話であり、若干複雑な論点であるため、何回か繰り返しこの箇所を読んでいこうと思う。
また、そもそも確率的な波そのものが何に規定されるものなのかについても考えを巡らせようと思う。上記の概念を含め、ウィルバーが提唱する概念のいくつかは推論的かつ比喩的なものであり、それを事実として即座に受け入れることは賢明ではない。
ただし、そうした推論的・比喩的な言葉の意味を考えることは、人間発達における隠れた現象を理解していくことに有益だろう。フローニンゲン:2018/11/6(火)11:25