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3348. 不安と自由:観察と量子・自己の振る舞い


時刻は午後の六時に迫っており、辺りはほぼ闇に包まれた。今日は随分と読書がはかどり、結局本日三冊目となる“Phenomenology & Existentialism: An Introduction (1984)”の初読を先ほど終えた。

フッサール、ハイデガー、サルトルの考えの中に、人間発達を考察する上でいくつか興味深いものがあり、それらをノートにメモし、自分なりの考えを書き残しておいた。本書は想像以上に内容が充実しており、今後も繰り返し読むことになるだろう。

本書の中で一つ印象に残っているのは、キルケゴールが「不安」を人間存在にとって不可欠なものとみなし、なおかつそれを自由への扉だとみなしていたことだ。不安が私たちにとって不可避なことは体験上多くの人がそれとなく気づいているかもしれないが、それが自由を導くものであるという考え方は興味深いだろう。

実際にそれは、ここのところ自分が感じていることであった。何か不安が生じる時、その不安は往々にして自分の中の囚われと密接に結びついている。

そこで私はよく、不安の根源を辿っていくようなことをするが、それを行い、不安の根源らしきものに気づけば気づくほど、少しずつ自己を縛るものからの解放を経験しているように思う。不安が生じるところには、常に自己の囚われがあり、その囚われの特定とそれからの解放が、私たちを自由へと徐々に近づけていく。

午前中、ふとしたきっかけで、量子物理学について調べていた。そこで、「観察という行為が量子の振る舞いを変えてしまう」という実験結果を発見し、大きな感銘を受けた。

私は量子物理学の門外漢であるから詳しいことはわからないが、量子は観察されることによって振る舞いを変えるというのは、量子にも意思があり、観察者と何らかのコミュニケーションをしているかのように思えた。

その実験結果について少しばかり考えを巡らせてみると、改めて観察という行為の持つ意味、そして量子の性質の奥深さを知った。量子が観察によって振る舞いを変えるという現象に関して、それでは量子を私たちの自己に置き換えてみるとどのようなことが言えるだろうか?ということを考えていた。

量子と自己との関係性について、私は一切の知識がないのだが、もしかすると、自己もまた、観察されることによって振る舞いを自発的に変える存在ないのではないか、ということを考えていた。毎日日記を書きながら絶えず自己を観察していると、観察する自己は観察される自己に影響を与え、観察される自己は何やら振る舞いを変え、新たな自己に向かっていく運動を行っているように見える。

私たちは常に差異化と統合化のプロセスの中にあるというのは発達の原理だが、ひょっとすると、自己を観察するという行為がそのプロセスを促進するのではないか。自己は観察されることによって振る舞いを変え、それがまさに差異化であり、その積み重ねがいつか統合化へと繋がっていくようなイメージが見えてくる。

量子物理学の世界に対して関心が高まり始めている。もちろん、高度な数式を扱うことには関心はないが、量子物理学の理論的な側面については是非これから理解を深めていきたいと思う。フローニンゲン:2018/11/2(金)18:09

No.1377: Topological Reality

If we alter the shape of time in some ways, is the nature of today the same as that of tomorrow? Groningen, 19:35, Saturday, 11/3/2018

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