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3313. 日記の機能及び非二元


時刻は午後の五時を迎え、これから少しずつ暗くなっていく時間帯となった。ちょうど今週の日曜日からサマータイムが終了し、そこからは日照時間がどんどん短くなっていくだろう。

つい先ほど、ヘーゲルの書籍“The Phenomenology of Mind (2003)”を読み進めていたが、その内容がほとんど頭に入ってくることはなく、少しばかりノートにメモを書き留めたほどであった。本書については、これからも折を見て何度も読み返し、今回のようにごくわずかに理解できる事柄を得ながら、少しずつ自分の理解が深まっていくのだろう。

昨日はほとんど日記を書き留めることはなかったが、そのせいか、今日は比較的日記をよく書き留めているように思う。いつもは大抵、一日に四回ほど日記を綴ることが習慣になっており、昨日あまり日記を書くことがなかったため、今日はすでに四回目の日記を今執筆しているように思う。

不思議なことに、書くことが事前に一切決まっていなくても、日記を書き出してみると、あれこれと文章が生まれていくことが多くある。これはまさに、形にしてみないと一切わからない、人間が内在的に持つ創造性の働きによるものなのだと思う。

確かに普段私は、自分自身を良く知るために日記を書いているという側面がある。自分の内側の思考や感覚を文章にすることによって、それを客体化し、文字によって書き出された事柄によって自分を深く知る道が進んでいくように感じている。

一方で、日記を書くことは自分自身を知ることのみならず、世界と交流すること、ないしは世界を理解することにもつながっているのだと最近よく感じる。日記の執筆によって、内面世界を掘り下げていくことだけではなく、外面世界に対する理解が促進され、それは見方を変えれば、外面世界との交流に他ならないことがわかってくる。

文章を書くことの作用や効能についてはいろいろなものを自分なりに見出してきたが、世界を深く知り、世界と交流することを促進するという働きを文章の執筆が持っていることに気づき始めたのは比較的最近のことかもしれない。

午後に仮眠を取っている最中、ふと、非二元の意識について考えを巡らせている自分がいた。インテグラル理論においては、それは意識の状態として括られるが、それは本来、意識の状態すらも超えているものなのだと思う。

実際は、非二元という現象は、状態的にそこに生起するようなものではなく、常にここに生起し続けている。ただし、私たちの心が二元的な判断をする性質を内在的に抱えているがゆえに、非二元としてあり続けている世界の本質に気がつかないのだ。

とりわけ、意識下に言語が介入すると、言語が持つ分節化の機能により、目の前のリアリティは即座に分節化(二元化)される。普段の生活の中で、言語に多く依拠している私たちの精神は、二元化されたリアリティに飼い慣らされており、本質的には絶えず非二元として生起し続けているこのリアリティの実相に気付けないのだ。

そのようなことをぼんやりと考えていると、仮眠の終わりを告げるバッハの曲が流れ始めた。フローニンゲン:2018/10/25(木)17:18

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