
早朝に空を覆っていた雲が随分と晴れ、ライトブルーの空が見えるようになってきた。ここ数日間の暖かさから変化があり、今日からは再び秋の涼しげな気候となる。
今日の最高気温は15度とのことであり、明日以降も同様の気候が続く。フローニンゲンでの生活も三年目を迎えたが、この時期のフローニンゲンはもっと寒いものだと思っていたが、それほど寒くないことを嬉しく思う。
奇妙なことに、数週間前に暖房をつける必要がある日が何日か続いていたが、本格的に寒くなり始めるのは、サマータイムが終了してからなのかもしれない。
書斎の窓から見える街路樹は紅葉が随分と進み、中にはすでに葉を落としてしまった街路樹もある。そのような街路樹たちを眺めていると、昨夜、闇夜から雫が一滴落ちてくるかのような感覚があったことを思い出す。
そこからさらに、昨日の明け方に見ていた夢について思い出していた。巨大なビルが現れるあの夢についてである。
あの夢に現れた巨大なビルは、もしかしたら知の巨大な建築物なのではないかという考えが突如芽生えた。だが、夢の中でのそれはどうも叡智と呼べるようなものではなく、文字通り、知の構築物であった。
ビルに近づいた時、ギラギラと光る明かりが灯されていたことを思い出す。あの光は何だったのだろうか。
それは知識の持つ肯定的な作用と否定的な作用の両側面を象徴するようなものだったと言えるかもしれない。知識と叡智の大きな違いについて考えを巡らせる。
知識はそれを活用する際に、正しく活用することも、誤って活用することもできる。言い換えれば、知識には善悪のどちらかに転がり落ちる可能性が内包されている。
一方、叡智は誤りようがないものなのではないかと思う。つまり、叡智には悪に転がり落ちるような側面を持っておらず、仮にそうした側面を持っているのであれば、それは叡智ではなく、知識の範疇に留まる。
叡智は必ず、社会善を実現していくものであり、社会悪を育むようなものではないのだという考えが生まれた。その考えに基づくと、やはりあの巨大なビルの薄気味悪さは、それを構成しているものが悪に転がり落ちる可能性を内包した知識であったからなのではないかと思う。
もう一つあの巨大なビルが象徴することについて思うことがあった。今の私はおそらく、巨大な知の建造物の頂上に向かっていこうとする衝動を持ち合わせている。
確かに私の日常生活において、それは純粋無垢な探究意欲として現れているが、それは自分を知の建築物のてっぺんへ向かわせようとするエネルギーであることは間違いない。
ここで昨日ふと思ったのは、そうした知の巨大な建築物の頂上に向かっていく衝動を抑えることはできないが、ひとたび頂上のような地点に辿り着いたら、そこから地上に向かって飛び降りる必要があるのではないか、ということだった。
ひょっとすると叡智というのは、バベルの塔のてっぺんから地上に向かって飛び降り、着地した先の地上にあるのではないだろうか。それは決して最初から地上にあるのではなく、バベルの塔の頂上まで登り、そこから塔そのものを破壊するかのような勇気を持って、てっぺんから飛び降りた先の地上に宿るようなものなのかもしれない。フローニンゲン:2018/10/18(木)08:49