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3280. 哲学への逢着と自己への帰還


時刻は午後の六時に近づきつつある。今日は一日を通して随分と読書に時間を充てることができた。

昨日購入した哲学書のうち、教育哲学に関する一冊と運動哲学に関する一冊の初読を終えた。二つの書籍を読みながら、随分とメモを取ることが多かったが、それらはまだ単なる知識でしかないのであるから、それらをここで列挙しても何も意味がないだろう。

今朝の日記で書き留めていたように、就寝前に過去の日記を編集するのではなく、それらを昼食後に行うことを今日から始めたことにより、夜はパソコンを眺めるのではなく、さらにまた読書に時間を充てることができるだろう。その際には、午前中に読んでいた成人発達理論に関する続きを読み進めていく。

人間発達や教育について何か考えようとすると、必ず「人間発達とは何か?」「良い教育とは何か?」といった問いにぶつかる。こうした問いは、科学的な研究に没入している時には起こりにくいものであったと記憶している。

ここ最近は日々の生活を送る中で、「自分は一体何者なのだろうか?」「自分の人生とは何であり、よき人生とは何なのか?」という問いと頻繁にぶつかる。それらはどれも哲学的な問いであるということに気づかされる。

今日は昼食を摂っている最中に、答えのない問いに向かっていくことを好んでいた幼少時代の自分のことを思い出していた。誰かが答えを用意した問題に取り組むことがどこか気乗りがせず、誰も答えのわからないような問題に向かっていくことを好んでいた当時の自分の姿が脳裏に浮かんだ。

学校教育の隠れたアジェンダの一つは、決められた正解にいかに早く正確に辿り着くことだと思うが、そのアジェンダに対して、いつもどこか違和感を感じていた自分がいた。確かにそのアジェンダをこなしながらも、どこか当時の自分は、誰にもわからない問題、さらには今の自分には全くわからないような問いに向かっていたように思う。

人生のサイクルがいくらか回り、今欧州の地で生活をし、そこで突如として哲学の領域に辿り着いたことには大きな意味があるように思えてくる。今の自分が哲学に大きな関心を寄せ、少しずつ自分なりに哲学的な問いに向き合おうとしているのはもしかすると、自己への帰還の始まりなのではないかと思わされる。

今の自分は本当に何も知らない。何をどこまで知らないかを知らないほどに、知らないことの領域は無限に多い。

そうしたさなかにあって、知る知らないを超えて、自分の中で生起する究極的な問いに向かっていこうとする運動が自分の中で起こっていることに気づく。それは問いに答えようとするような運動ではなく、純粋に問いに向かっていくような運動だ。いや、言い換えれば、それはそもそも、新たな問いを生み出す運動だと言ってもいいかもしれない。

今日のフローニンゲンの夕方の空は雲に覆われている。遠くの方に夕日が少しばかり見えるが、基本的には薄暗い感覚がする。

夕食後からもまた、全く答えることのできないような自分なりの問いに自分なりに向き合っていきたい。フローニンゲン:2018/10/17(水)17:58

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