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3279. 技術の自動化とヴィゴツキーの発想


ここ最近の朝と同様に、今朝も非常に心地の良い朝だった。午前中はまずモーツァルトに範を求めて作曲実践をした。

ちょうど先ほど成人発達理論に関する“Handbook of Adult Development and Learning (2006)”の再読を行っている時に、作曲技術の中で今はまだ意識的に行っていることを無意識的に行えるようにし、現在意識的に行っていることを新たなものにしていくことの大切さについて考えていた。

これまで意識的にでなければ行えなかったことが無意識的に行えるようになるというのは、まさに学習の一つの賜物だろう。ここ最近は確かに、作曲実践に関しても随分と無意識的に行えることが増えてきたが、まだまだ意識に上げてゆっくりと取り組まなければならないことが多々ある。

例えば、転調の技術はまさにその一つだ。ここからは、より自由自在に転調が行えるように、まずは各調の特徴をしっかり掴んでいく。

そして、転調の技術の基本を押さえ、それを少しずつ意識上で行うのではなく、無意識下で行えるようにしていく。技術の自動化によって、新たに取り入れられる情報量が増え、それが能力の器を拡張させていくことを改めて思い出そう。

午前中に上記の書籍を読んでいた際に、もう一つ印象に残っているのは、ヴィゴツキーが認知的発達の範囲を広く取っているということだった。ヴィゴツキーは、ピアジェで言うところの認識の枠組み(スキーマ)は、何も思考を司るものだけを意味しているのではなく、認知、感情、感覚、動機など、自己システムを形成する諸々の特質を生み出す機能だと捉えていた。

もちろん、ピアジェのように認識の枠組みの定義を狭めることによって、実証的な調査がしやすいなどの便益はあるが、そうした限定的な定義では説明ができない発達現象が多々あるのも確かだろう。

例えば、認識の枠組みが変容した際に、私たちの感情の受け取り方までもが変容していくのはなぜなのだろうか?という問いに対しては、ヴィゴツキーの定義のように、認知と感情が密接に関係し合っているものであり、認識の枠組みはそれらを生み出す機能であると捉えれば、その問いをうまく説明することができるだろう。

認識の枠組みというのは、私たちが思っている以上に自己の存在に大きな影響を与えているのではないかと最近よく思う。そうした考えを持っていた際に、ヴィゴツキーの発想に触れ、刺激されるものがあった。

認識の枠組みは、自己システムを形成する認知や感情、さらには感覚などの諸々の要素を生み出す機能としての役割を果たしているのだと思う。もちろんこうした包摂的な見方は、ケン・ウィルバーの「ライン」という概念や、ハワード・ガードナーの「多重知性」という概念と矛盾するわけではない。

ヴィゴツキーは、認知や感情を司っている枠組みを単純に分離するのではなく、それらを包摂的に捉えていたのに対し、ウィルバーやガードナーは、そうした包摂性を認めながらも、認知や感情を司る比較的独立した認識の枠組みを想定することによって、人間発達という現象に新たな説明を加ることに貢献したのだと思う。フローニンゲン:2018/10/17(水)12:25

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