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3261. 意識と知性


時刻は午前八時に近づき、辺りは随分と明るくなった。遠くの方から小鳥の鳴き声が聞こえてくる。

この穏やかな雰囲気は、本当にフローニンゲンの朝らしい。騒音などほとんどなく、とても落ち着いた環境の中で日々を過ごすことができていることに対して、いつも私は感謝の念を持つ。

この時間帯の空はとても美しく、ほのかに紫がかっている。そうした空を眺めながら、今日もテレマンのピアノ曲を聴いている。

テレマンが生きていた時代にはピアノはないのだが、テレマンの曲をピアノの演奏で聴くと、心がとても穏やかになる。今日も一日中テレマンの曲を聴きながら、自分の探究活動と創造活動に従事していこうと思う。

また本日は、午前と午後に分けて、来年の大学院への出願に向けて、推薦状に記載してもらう事柄を整理しようと思う。今のところ、依頼をした三人の教授のうち、二人の教授から返信があり、快く推薦状の執筆を引き受けてくださったので、まずはその二人の方にどのようなことを書いていただくかを練っていく。今日中に案を練り、来週中に二人の教授に推薦状の執筆を正式にお願いしたいと思う。

昨夜ふと、このところ、「意識の発達」という表現があまり自分の中でしっくりきておらず、「知性の発達」という表現の方がより適切なように思えることについて考えていた。「意識」と述べてしまうと、それが意味する対象は知性よりも広く漠然としたものであり、基本的に発達心理学を含む発達科学が対象にしているのは、意識の中に生起する機能的な側面である。

ある文脈やタスクにおいて発揮されるのは、意識というよりも知性と呼ぶ方がふさわしいという感覚が日ごとに増している。意識にせよ、知性にせよ、それを定義することは極めて難しいが、知性に関しては、私たちが現実世界の何かしらのタスクや文脈において発揮する意識の機能的側面だと捉えるようになっている。

意識の定義を探究することを一つの役割としている心の哲学においても、その定義付けは難航しているようだ。

随分と昔にある人から、「意識なんて発達するんですか?」と言われたことがあるが、この素朴な質問は実はかなり的を得ているのではないかと思う。意識を空間としてみなすことは問題があるのだが、仮に意識を内面空間だとみなした時、そもそも意識空間は最初から無限なのだから、それが発達すると考えるよりも、そうした空間内に生起する局所的な知性が発達していくとみなした方が正しいように思えてくる。

喩えて言うならば、惑星そのものは発達しないが、その惑星内の生命は発達していくというよりに、意識という惑星の発達を考えるのではなく、その惑星内に生息する多種多様な生命を知性と見立てて、それらが発達していくと考えた方がいいように思える。

おそらく今後も意識や知性の性質や定義について立ち止まって考えていくことになるだろう。人間の持つ意識や知性について探究を深めれば深めるほど、何か一つの定義をすると、大事なものがこぼれ落ちてしまう感覚がある。

そうした感覚が無くなるような定義の発見に向けて、今日からの探究を進めていきたいと思う。フローニンゲン:2018/10/13(土)08:08

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