つい今しがた夕食を摂り終えた。夕食を摂っている最中に、昨日に続いて夜空に輝いている繊月(せんげつ)をぼんやりと眺めていた。
時刻が午後の七時半を迎えると、辺りはほぼ闇に包まれるようになった。これから就寝に向けて、作曲実践を行い、夕方から読み始めた、ハワード・ガードナーの“The Disciplined Mind (1999)”の続きを読んでいこうと思う。
本日は無事に、“A History of Art Education: Intellectual and Social Currents in Teaching the Visual Arts (1990)”の初読を終えた。明日から再読を始めていく。その時には、初読の際に気になりながらも読み飛ばしていた箇所を読んでいく。
本書を読むことによって、芸術教育に関する今後の探究の焦点が少しずつ見えてきた。芸術教育を取り巻く社会的な思想と芸術教育システムの分析をする際に、まずは対象国と時代を絞り、その国のその時代の芸術教育を取り巻く社会経済的な価値観と芸術教育システムの調査から始めた方が良さそうだということが見えてきた。
いきなり大きな風呂敷を広げるのではなく、小さなところから探究を始めていき、可能であればそれを論文の形にまとめていくのも良いと考えている。そのためには、ここからさらに焦点を具体的にしていき、その焦点に関する文献調査を進めていきたいと思う。
先日友人と話をしている時に、自己肥大化した人たちに関する話題となった。端的には、世界を自分の手で変えられると思っている人たちの安直な発想について話題となった。
こうした発想が生まれてくる根元には、独我論的な思考の枠組みがその人の中に根付いてしまっているのではないかと思う。独我論とは、他者や外的世界は自分の意識内容に過ぎないという偏った発想なのだが、上記のような考え方を持っている人はそうした発想に気づかないうちに陥ってしまっているように思う。
「自分が認識する世界の一部を変えていくことができる」というのならまだしも、自分が世界を変えることができるというのはあまりにも独我論的な自己肥大化した発想ではないだろうか。
今日はこれからモーツァルトに範を求めて作曲をする。明日の早朝には、今朝と同様に、バッハの変奏曲に範を求める。
これからの作曲実践においては、いつも以上に最初の全体把握にかける時間を十分に取ろうと思う。最初にモーツァルトの曲の構造を分析する際に、いつもよりそれを丹念に行っていく。
最近はこの分析作業に時間をかけることなく、すぐさま曲を作り始めるような習慣になっていた。ここでもう一度そうした習慣を捉え直し、最初の段階の分析で新たな発見や気づきがないかを確認していく。
分析に関する観点を増やすためにも、近々再び作曲の理論書を読むことを行ってもいいかもしれない。把握するべきことと獲得するべきことの核は、構造そのものを生み出す力そのものである。
その力の正体を掴むことができたら、曲を自由自在に生成していく境地に一歩近づけるように思う。曲が湧き出ている泉を見るのではなく、泉そのものを生み出している力に着目していく。フローニンゲン:2018/10/12(金)19:47