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3252. 名も知らぬ誰かの仕事


時刻は夕方の四時に近づきつつある。フローニンゲンはこの時間帯が一番気温が高くなり、すっかり秋の寒さを感じられる今日この頃であるが、今はとても暖かく感じる。

あまりにも西日が強いときには窓のカーテンを閉じているが、今日は太陽の光が幾分柔らかいのでカーテンを開けている。そのため、書斎には秋の穏やかな太陽の光が満ち溢れており、心身ともに暖かさを感じる。

つい先ほど、窓の外に広がる目の前の通りを眺めていた。昨日に完成した道路の様子を観察するためである。

完成された道路の上を自転車で走る人たちの姿を見て、とても嬉しくなった。私が作った道路では決してないのだが、作業員の方たちが長い時間をかけて作り上げた道路を人々が利用している姿には打たれるものがあった。

名も知らぬ誰かの仕事が、名も知らぬ誰かの人生に触れ、彼らの人生に貢献しているということ。作業員の方たちの献身的な働きぶりを知っている分、感動もひとしおであった。

一人の人間の人生が、仕事を通じて他の人の人生と繋がりうるということ。そして目には見えないところで他の人の人生に貢献をしうるということを目の当たりにするような経験であった。

今日はこれからモーツァルトに範を求めて一曲作り、そのあとは芸術教育の歴史的変遷に関する書籍を読み進めていく。現在私は、来年は再びアメリカの大学院に戻って探究をしようと思っているが、はてこの社会においていつから学校を卒業しなければ社会に出られなくなってしまったのだろうか?という問いが立った。

ここでいう学校とは、大学などの高等教育機関だけではなく、小中学校を含んだ学校機関のことを指す。私たちはいつから学校を経由することが社会に出るために当たり前のことだと思うようになったのだろうか。

それは思うというよりも、いつから社会的にそのような風潮や仕組みが出来上がったのかに興味を持った。

確かに、学校は多くのことを私たちに授けてくれる。一方で、学校では得られないものがあり、学校という枠組みの中で剥奪されてしまうものも存在しているという認識を私たちは持っておくべきではないだろうか。

今の私がまだ博士課程に行く道を選んでいないのは、そうした問題意識と関係していることがわかり始めた。学校機関では得られないものや、その枠組みの中で剥奪されてしまうものについては、これまでの日記で何度も書き留めているので、ここではあえてそれらについて具体的に説明することはしない。重要なことは、学校を経なければ社会に出られないと思わせてしまう社会の思想そのものをもう一度問うてみることにあるように思う。

仮に私が四つ目の修士課程に行き、そこから博士課程に進学すれば、学術機関は私に多くのことを授けてくれるだろう。だが、学術機関では探究できない領域の存在を見るにつけ、さらには学術機関の枠組みの中で剥奪されてしまう可能性を秘めたものの存在を認めるにつけ、学術機関の存在意義について、そしてそこに所属することの意義についてもう一度ここで立ち止まって考えてみたいと思う。フローニンゲン:2018/10/11(木)16:02

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