時刻は午後の七時半を迎えた。つい先ほど、スコットラン人の友人であるカルムから、志望動機書のレビューをしてもらえるという快い返事をもらえた。
カルムはちょうど私が昨年所属していた実証的教育学のプログラムに今年から所属しており、先月から新たな学期が始まり、非常に充実した学術生活を送っているとのことである。もう少ししたら期末試験の頃だと思うので、カルムに志望動機書のドラフトを送るのは試験後にしようと思う。大学院への応募の締め切りまでは十分に時間的な余裕があるため、カルムに試験後にお願いをしたとしても十分なゆとりがある。
夕方にふと、自分の内面世界の中で、無数のシンボルが踊っているのを知覚することがよくあることに気づいた。普段何気なくそれらの一端を日記に書き留めたり、曲として表現したりしているのだということに気づく。
実際に夕方に作った曲は、そうしたシンボルが外側に形となって現れたものだった。内側に生起するシンボルの不思議さについて考えていると、先ほど読み進めていた論文の中に記載のあった、アメリカの哲学者スザンヌ・ランガーの記述について思い出した。
ランガーは、私たちが知覚や感覚を言葉にすることによって初めて、そこに独自の意味が生成されると主張している。ランガーはそれを「記号的メタモーフォシス」という言葉を当てている。
これはつまり、知覚や感覚に対して言葉の形を与えることによって、知覚的・感覚的な記号が言葉という別種の記号に変容することを示している。まさに私が自分の内側の感覚的シンボルを、言葉、絵、曲として表現しているのは、それぞれ言語的・絵画的・音楽的な意味でのメタモーフォシスだと言えるだろう。
こうしたことを日々実践していると、確かに自分の内面世界が徐々に変容していくのを見て取ることができる。そこから特に、言語的なメタモーフォシスの重要性について考えていた。
その背景には、多くの現代人は芸術鑑賞にせよ、旅にせよ、知覚を単に消費しているだけなのではないかという問題意識がある。知覚されたものとゆっくり向き合って、それをじっくりと感じたり、それを言葉に表して味読するという実践がとても希薄なように思えて仕方ない。
そうした状況が、現代人の内面世界をますます空疎なものにしてしまっているのではないかと思う。ある事象を単に知覚するだけではなく、それを身体を通じて深く感じること、そしてそれを言葉として表現するという変換作業が私たちの体験をより豊かにしていくのではないだろうか。
そしてそうした実践が内面世界の豊かさにつながっていくのだと思う。身体感覚と言語を通じて体験を味読していくことの大切さを改めて考え直したい。フローニンゲン:2018/10/8(月)19:47