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3227. 芸術教育について


昨日、隣の家に預かってもらっていた書籍を受け取った。それは、オックスフォード大学出版の“The Oxford Handbook of Philosophy of Education (2009)”という書籍である。

本書は500ページほどにおよぶ大著であり、教育哲学に関する28本の論文が収められている。そのうちの一つの論文を先ほど読み終えた。

それはつい先日お世話になった、ハーバード大学教育大学院のキャサリン・エルギン教授の論文だ。今の私の最大の関心の一つは、芸術教育の価値と、その価値を貶める社会的な思考の枠組みの特性及び発生メカニズムであり、エルギン教授の論文は前者の関心事項を深めるのに有益であった。

論文としての長さはさほどないのだが、下線を引いた箇所は随分多く、書き込みをした箇所も多数であった。書籍や論文は、いかに書き込みをしながら能動的に読み進めていくかが重要であるとこの頃よく思う。

書籍に一切書き込みをしないことは、何も考えていないことの証なのではないかと思われる。読了後に自分の考えをまとめるような文章を書かないことも、その書物を読んだ意味を薄めてしまうように思う。

書籍や論文などの文献を読んでいる最中には、とにかく余白に書き込みをし、読了後には何かしらの文章を短くてもいいのでまとめておく。その内容は、別にその文献に関することでなくてもよく、文献から刺激された何かしらの思考や感覚を残しておくだけでいい。それが新たな思考や感覚を生み出してくれる。

エルギン教授の論文を読みながら得られたヒントとしては、エルギン教授が協働者であったネルソン・グッドマンの認識論を援用しているように、芸術教育の価値を認識論の観点から論じていくことは十分に可能であり、それは今までの自分にはないアプローチであるということだった。

認識論の枠組みを用いれば、芸術教育に関してこれまで見えていなかったものを捉えながらその価値について論じることができるように思えてくる。日々の生活の中で作曲実践や絵を描いている最中によく思うのは、芸術活動は絶えず新たな自己発見をもたらしてくれるということだ。

人生の質が深まることに加えて、自己の気付かぬ側面に気付かせてくれることは芸術実践の一つの価値であるように思える。そうしたことを教育することの意義は、芸術というものが、文学や科学と同様に、リテラシーを必要とすることなのではないかという考えが芽生え始めている。

芸術に関するリテラシーを養わなければ、芸術作品を鑑賞することも、芸術作品を創出することもままならないのではないだろうか。言葉を読み書きできるようになるためには、言語リテラシーが必要であるのと同様に、芸術にも固有のリテラシーが存在しており、それを養っていくことが大切なのではないか。

それを行う意義については、エルギン教授が述べている、芸術そのものの価値という論点と、ジョン・デューイが指摘するような実利的な側面があるだろう。もしかすると、自己発見や自己の人生そのものを深めていくという点は、デューイが指摘する実利的な側面に該当するのかもしれない。

芸術作品に内包されている諸々のシンボルを理解するように努めることは、自己及びこの世界をより深く理解することにつながっているように思える。

昨日は、本書以外にも、グッドマンの主著“Language of Art (1976)”と“Ways of Worldmaking (1978)”が届いたので、明日以降にそれらの書籍も読み始めようと思う。フローニンゲン:2018/10/6(土)17:24

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