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3222. 文化の衣を脱いで


今日のオランダの天気は本当に素晴らしい。雲はほとんどなく、飛行機雲が空に落書きをしているだけあり、今日は快晴だと言える。

天気予報を確認してみると、今日から一週間は晴れの日が続くらしい。七泊八日のボストン旅行を終え、今日から少しばかり時間をとって、ゆっくりと旅の経験を咀嚼していきたいと思う。いや、咀嚼の前に、旅の経験を一度自分の深層で発酵させる必要があるだろう。

発酵の過程で自分の中から湧き上がってくるものを少しずつ咀嚼していく。それは全て文章を書くという内省実践を通じて行う必要がある。

文章を書かなければ、経験の咀嚼はありえない。どのような文章であってもいい。自分に書ける範囲のところまで文章を書いていくということ。それが今の自分の範囲を超えた次の自分を生み出していく。

日記の執筆というのは、範囲の確認であり、範囲の外の自分を引き込むことなのだ。そのような考えがふと思い浮かぶ。

頭の中だけで範囲を定めようとしないこと。人間の頭はそれほど器用にできていない。

文章を書かなければ、人間の心が持つ非線形性に巻き込まれ、そこから一歩も外に出られないだろう。文章というあえて線形的に進む実践を十分に活用すること。

文章は形式的には線形的に進むが、それは自分の内側の非線形的な現象に合わせて進んでいくという面白い特徴を持つ。これまでと変わらず、今日から再び自分のペースで日記を綴っていくことにしよう。

旅に出かけるたびに、自分の意識が少しずつ変容の方向に向かっていることがわかる。旅はおそらく、これまで自分が順応していた文化から一度自分を引き離すという効果を持つ。

そうした旅の経験を積み重ねていけばいくほどに、良かれ悪しかれ自己を規定する文化の衣が剥がれ落ちていく。文化の衣が剥がれ落ちれば落ちるほど、自己の深層に横たわる自分の核のようなものが見えてくる。

それは何ものにも囚われずに絶えずそこにある。それは解放の必要がないほどに、解放された存在である。

言い換えると、それは自由を体現した自己の存在だと言っていいだろう。本質的には、解放されるべきものはそうした自己の深層に横たわるものではなく、それを取り巻く諸々の文化的衣なのだと思う。

この十年を振り返ってみると、大阪、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンゼルス、東京、フローニンゲンと色々な町で生きてきた。それらの町で生活を営みながら、世界の様々な場所に旅行に出かけてきた。

そうした一つ一つの経験が、自己を取り巻く文化の衣を徐々に引き剥がし、自分の真の顔を開示することを促進していた。ボストンからアムステルダムの空港に着陸した際に、宇宙から帰還したかのような感覚があったことを先ほどの日記で言及していた。

仮に地球から離れ、本当に宇宙から地球に帰還した際には、大きな意識の変容が起こるように思える。それはもちろん、意識の状態の変化であり、意識の段階の変化ではないが、そうした意識の状態の変化は段階の変化を生むために不可欠なものである。

地球の外から地球を眺め、宇宙空間の中で自己を見つめるとき、いったい自分は何を思い、何を考えるのだろうか。自然の中で暮らすことと宇宙に出かけること。それは近い将来に実現させたいことである。

あと一時間ほどでフローニンゲン駅に到着し、そこからまた新しい日々が始まることを確信している。フローニンゲンに向かう列車の中:2018/10/5(金)10:48

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