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3200.【ボストン旅行記】芸術教育を取り巻く社会的論説空間の変容に向けて


今日はハーバード大学教育大学院(HGSE)での説明会を終えた後、その足でイザベラ・ガードナー美術館に立ち寄った。この美術館に関する話を聞いていた通り、美術館内の中庭がとても美しかった。

だが残念ながら、所蔵されている絵画作品からは、何か強い印象や気づきを得られるものは一つもなかった。中庭の周りにある椅子に腰掛けて、中庭をぼんやりと眺めていた光景が一番印象に残っている。

先ほどの日記で書き留めていたように、ボストン滞在中にできれば今回の修士課程の出願に向けた志望動機書のドラフトを執筆したいと思う。HGSEが要求する志望動機書の字数は、他の大学院よりも多く、改めてこの機会にこれまでの自分の人生を振り返り、これからの展望に思いを巡らせることになるだろう。

これは今の自分にとって必要なプロセスのように思われる。欧州での三年目の生活において、私は意図的に学術機関から距離を置くことにした。

そこで自らの関心に赴くままに、誰からも制約されることなく、自分の探究を進めていこうと思い、そのような決断をした。これは結果的にはとても実りが多く、自分のこれからの探究活動の方向性を新たに見つめ直すことになった。

その延長線上に、今回の志望動機書の執筆があると位置付けている。今回志望動機書の中では、出願予定のプログラムの性質上、霊性教育について触れることはないだろうが、芸術教育になぜ自分が関心を持ったのか、そして芸術教育に自分がこれからどのように関わろうとしているのかをここで突き詰めて考える必要がある。

芸術教育の分野にこれからどのように自分が関わっていくかについては、この日記を通じて改めて書いていきたいと思うし、これまで断片的にそれについて言及していたように思う。ここ最近強く思う自分なりの関与は、「芸術教育を取り巻く社会的論説空間の変容」にあるのだと考えている。

それは端的には、芸術教育を取り巻く人々の考え方の変容を目指すものであり、その実現に哲学的なアプローチと実践的なアプローチの双方を掲げている。中でも私は、哲学的なアプローチの方に強く重きを置いており、哲学的な方法をもってして芸術教育および芸術に関する人々の認識を変容させることに対して強く動機付けられている。

今の私が最も問題視しているのは、芸術の商品化および特権化であり、芸術教育の意義の消失の二つである。ここでは詳しく述べないが、私が問題意識を持っているのは、本来全ての人の人生の質を向上させ、自己の新たな側面に絶えず気づきを与えてくれる芸術というものが、いつの間にか万民のものではなくなり、一部の特権階級の人のものになりつつあり、同時に芸術があたかも単なる商品のように消費される対象となっている社会的風潮である。

さらには、学校教育において芸術教育の存在感と意義は極めて希薄なものになっていることも問題視しており、それは子供たちの教育に関する問題だけではなく、成人の芸術教育というものの重要性がいかに社会に普及していないかという問題とも繋がってくる。

自分自身の経験上、実際に作曲をすることや日々絵を描く創造活動に従事することによって、人生の質が大きく変わったと実感している。芸術を商品として消費するのではなく、自らが創造活動に従事することによって、日々の生活の充実感と幸福感がこれほどまでに向上するのだと知ったことが、多くの人たちに創造活動に従事することの意義を伝えたいという自分の思いを生み出している。

その思いを伝えるためには、現代社会に蔓延する芸術および芸術教育を取り巻く論説空間を変容させていくことが不可欠だと考えるに行ったのである。言い換えれば、芸術を取り巻く人々の意識を強く縛る社会的な風潮を変えていくことなしには、人々が創造活動を通じて自らの人生の質を高めていくことには繋がらないだろうと考えたのである。

この考えを実行に移すためには、教育哲学、とりわけ芸術教育を取り巻く哲学と、批判理論のような哲学的枠組みを習得する必要があると考えた。いやこれは考えたというよりも、切実な思いであった。

私はこれまで一度も哲学のトレーニングを学術機関で受けたことはない。そんなことは一切関係なく、ここから全く新しい分野に飛び込み、とにかく哲学的な修練を自らに課したいと思うに至った。

芸術教育の意義を自分なりに深く考え、自分が見出した意義の一端が少しずつ社会に浸透してくれればという願いをもとに、これからの探究活動を進めていく。ボストン:2018/9/29(土)17:55

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