3180. 没入と超越
- yoheikatowwp
- 2018年10月20日
- 読了時間: 3分

一日が怖いぐらいに早く過ぎ去っていく。今日も気がつけば午後の三時を回った。
欧州の地で私は一人、毎日同じ生活を送っている。読みに読み、書きに書き、作りに作る生活。逆に言えば、それしかない生活だ。
先日の日記の中で、私は自分の無知さと一生涯にわたって付き合っていくことを書き留めていたが、これはある意味、終わりのないプロセスである。仮に、自分の無知さと格闘しようと思ってしまったら、それは泥沼の道を歩むことになることが予想される。
確かに、私は学ぶことをこの人生に託されたのだと思う。誰かの代わりに学びを深め、その誰かのためにその学びを還元していくこと。その些細なことが、自分に託されたことなのだという思いに変わりはない。
しかしながら、この「誰か」というのが仮に共同体の次元で捉えるべき存在であるならば、ここからの学びは相当に過酷なものになるかもしれない。
今日も哲学書を読み続けることによって、自分の探究課題と向き合っており、その最中にあっては自分の意識は探究に対して常に没入状態にある。だがひとたび、探究から離れて休憩を取ると、時に自分の探究そのものを超越的な次元から眺める視点が生まれる。
それによって、常に自分は一体何を探究しているのかを問われることになる。これは自己にとっての矯正力となり、こうした矯正があるおかげで、絶えず自分の探究を深めていくことができているように思う。
一方で、ここ最近の私の頭の中にある事柄は、探究した事柄をいかにこの世界に還元していくのかについてであり、さらにはその還元の方法についてである。欧州での探究の日々が続けば続くほど、この意識は高まっていく。
だが今は、何かを還元できるほどに自分は何も学んでいないことに気づかされる。そうした思いが欧州での三年目を迎えると再び吹き上がり、今年一年は学術機関に所属することはしないが、独力で学びを進めていこうと決意した。
それは完全に自分の内発的動機に基づくものであり、誰かから強制されるようなものではない。とにかく今年一年は、来年の探究への準備の期間とし、教育哲学や芸術教育、そして霊性教育に関する探究の土台を作っていこうと思う。
決して焦ることなく、日々の歩みをゆっくりと着実に進めていく。その過程の中で、超越的な意識による矯正的な気づきにたびたび出くわすだろう。
そうした矯正力の力を借りながら、自分の探究が向かう方向について常に確認をしていく。今日の夕方から行う探究もまた、没入と同時に超越の双方が入り混じるものになるだろう。没入と超越という二つの観点を常に忘れないようにしたいと思う。フローニンゲン:2018/9/25(火)15:29
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