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3178. 哲学教育について


今日は一日中曇りだという予報があったが、そうではなく、太陽を拝む時間が随分多いことを有り難く思う。日の光は暖かいが、外はとても寒い。

先ほど昼食を摂り終えて、ゴミを捨てに外に出た時、昼の時間にもかかわらず、極めて寒いことがわかった。今は少しばかり書斎の窓を開けて換気をしているが、暖房はつけたままである。ボストンも同じような気温であるとのことであるから、旅行の際には必ずジャケットを持っていこうと思う。

今日は午前中に、ジャック・デリダの哲学思想と教育哲学を関連付けた書籍を読んでいた。いくつも考えさせられることがあり、そうした考えは自分の教育思想の種になっている。

こうした種を蒔くことにも意味はあるが、単に種をまいていてもしょうがなく、それを発芽させていく必要がある。種というのは、ある意味読書の中で得られる小さな気づきであり、これをしっかりと土に埋め込んでいくことがまず必要だ。

そのための手法の一つとして、やはり文章を書くことを挙げたい。今このようにして執筆している日記は、読書や何かしらの体験を通じて得られた種を土に埋めていく役割を果たしている。

どれだけ小さな種でもいい。思いついたことをあれこれと日記として書き留めておくことは、種を植えていく働きを持ち、実は土壌そのものを耕すことにもつながっているのではないかと思う。

午前中にぼんやりと考えていたことの続きとして、考えるという行為にも固有性が滲み出すのであれば、考えることを育む教育は極めて大切なのではないか、ということだ。自らの固有性は、芸術性や霊性のみならず、考えるという行為そのものの中にも見られるということは、また新しい気づきであった。

自らの思想を育んでいくための哲学教育の重要性について考える。「哲学教育」と言うと非常に堅く響くかもしれないが、それは自らの考え方の固有性に気づき、固有の考えを育んでいくことを目指すものである。

以前、今の私は自らにシュタイナー教育に類するような芸術教育や霊性教育を施していると述べたが、ここでもまた哲学教育を自らに課していくことの重要性に行き当たる。

午後からは、“Deleuze and Education (2013)”の続きを読んでいくことにし、この読書もまた自らに課す哲学教育に他ならない。フローニンゲン:2018/9/25(火)13:09

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