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3175. それは本当に「病理」なのだろうか?


まだ雲が少しばかり残っているが、雨は止み、遠くの空に夕日が沈むのが見える。暖房をつけるのは十月に入ってからにしようと思っていたが、そのようなことを言っていられないほどに今日は寒さがあったので、気温が上がる午後までずっと暖房をつけていた。夜も冷えるであろうから、先ほどまた暖房のスイッチを入れた。

入浴中に、私たちの理解の範疇を超えたものを「病理」とみなすことの危険性について考えていた。精神療法の関係者に聞くと、近頃は年を経るごとに精神病理の数が増えているということを聞く。

確かに、その人やあるいは社会を脅かす病理が真に発見される場合もあるだろうが、もしかすると現在世の中で言われている病理のいくつかは、本来病理ではないものを私たちが勝手に病理と名付けてしまうことによって生まれたものなのではないか、ということを考えていた。

仮に私たちが単に理解できないものを「病理」と名付けてしまっているのであれば、それは発達理論の考え方で言えば、「前超の虚偽」を犯してしまっていることになる。「前超の虚偽」とは端的には、高次元の現象を低次元のものに貶めてしまったり、むしろ逆に低次元のものを高度なものと誤解することである。

仮に、その「病理」と呼ばれるものが、その人の固有性に根ざすものであり、極めて類まれな力であった場合には、それを病理と名付けるのは随分と問題があるだろう。おそらく、精神病理の世界において病理と名付けられるもののほとんどは、実証的な裏付けがあって初めて病理と名付けられたのだろうが、そうだとしても安易に病理と括ってしまう傾向には気をつける必要があるように思う。

これはもしかすると、「病理とは何か」という根本的な問いから始まり、究極的には「人間とはいかなる存在なのか」という問いに導かれていくような問題かもしれない。果たして、病理とは一体何のだろうか。

私はこれまで精神療法の理論などを勉強することを通じて、自分でも薄々気づいているが、そうした理論体系の枠組みの中で病理だと見なされるような症状をいくつか持っている。ここでさらにテーマとして浮かんでくるのは、「果たしてそうした病理を治癒することが良いことなのか?」というものである。

おそらく多くの人は、病理というものは治癒されることが望ましいと思い込んでいるだろうが、果たしてそうなのだろうか。私たちの精神は非常に複雑な性質を持っており、仮にその病理が治癒されてしまうことによって、精神の全体性がむしろ崩れ、より大きな病理が生まれてしまう危険性もある。

またそもそも、仮にその病理がその人の固有性と密接に関わっている場合には、その病理を治癒することはその人の固有性を蝕んでしまうことにもつながりかねない。米国の某映画監督が、自分の作品の根源には自らの精神病理があることを理解し、頑なにサイコセラピーを受けることを拒んだというエピソードを思い出す。

ここまでのところを簡単にまとめると、私たちの理解が及ばないことを単純に病理と名付けることの危険性の一つには、その人の固有性——ないしは創造性——を殺すことになりかねないということであり、それはこの社会から一つの多様性を削ぎ落とすことにつながりうるということだろう。

現代社会において、標準化・平準化の波が至る所に押し寄せているのを実感する。「病理」と単純に括ってしまうことも、その表れの一つだろう。

午前中に読んでいた“The Collapse of Complex Societies (1988)”の中で、文明の崩壊を招く最大の要因の一つには多様性の欠落が挙げられていた。

今朝方、この書籍を読む前に偶然にも私は、幼少時代に飼っていた金魚とカナヘビについて思い出していた。当時の私は金魚とカナヘビの命を自分の無知から奪ってしまった。そこには多様性の欠落があったように思う。

金魚とカナヘビが入れられた環境について思い出す。そこには本来あるべきはずの生態系の多様性が全くもって欠落しており、均質化された人工的な空間だけがそこにあった。結局それによって、多くの金魚、そして一匹のカナヘビの命がこの世からなくなってしまった。

この現代社会に押し寄せる標準化・平準化の波により、どんどんと多様性が失われ、文明圏における人間の生態系が非常に危険な状態にさらされているように思えるのは私だけだろうか。フローニンゲン:2018/9/24(月)20:12

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