3174. そこにあるのは「スクーリング」か「ラーニング」か?
- yoheikatowwp
- 2018年10月20日
- 読了時間: 3分

時刻は午後の七時半を迎えた。いつもこの時間に夕食を摂り終え、日記を一つだけ書き綴ることが多いように思う。
先ほど夕食を摂りながら、現代の教育には果たして真の意味でのラーニングが存在しているのだろうか?ということを考えていた。真の意味でのラーニングというのは、学習そのものを愛する気持ちを育み、自己及び人生そのものを深めてくれるものだと私は考えている。
そうした定義に基づくようなラーニングは、残念ながら既存の学校はほとんど提供してくれないのではないかと思う。そこにあるのはラーニングではなく、単に「スクーリニグ」と形容できるようなものではないだろうか。
スクーリングとは端的には、学ぶことを愛する気持ちを育むことなど念頭に置かず、また生徒の個性や自己を深めることに焦点を置いておらず、学校という建物に足を運び、そこで窮屈な環境の中で無理やり情報を詰め込まされるような習慣的行為のことを指す。
学習においては兎にも角にも内発的動機が大切だが、スクーリニグは基本的に外発的動機のみに基づいて行われる。そのようなことを考えながら、さらに危惧するのは、現代においては、そうしたスクーリングに黙って従いながら無事に通過していく子供たちが多いということだ。
確かに小学生や中学生ぐらいであれば、自らの置かれている環境の歪さを内省するのは難しいのかもしれないが——そしてそうした発達特性を本質的に持っている子供たちに上記のようなスクーリングを強制することは極めて問題があるように思えてならない——、仮に自分の子供が黙ってスクーリングに従い、しかもそこで得られた成績に一喜一憂したり、ましてやスクーリング上での評価項目(テストのスコア)を高めることに躍起になっていたら相当に危惧するように思う。
スクーリングに盲目的に従い、そこで与えられる外発的な動機に依存し続けた結果として、仮にそうした外発的な動機付けがなくなったら、子供たちはどうなってしまうのだろうか。おそらくその成れの果てが、自ら自律的に学ぶことをしない大人につながり、人格的成熟がピタリと止まってしまう大人の大量生産なのだと思う。
私は来年再び大学院に戻って探究を続けようと思っている。以前にも書いたように、学術世界の中で探究をしていくことには時に窮屈さもあるのだが、今回は再び独学では本格的に探究ができないテーマを見つけ、学術機関の力を借りながらそれを探究していくことにした。
とにかく読みに読み、書きに書くということを行いたい。その衝動を抑えることは難しく、それこそがまさに内発的動機の発露であり、自分の魂の声なのだと思う。
仮に博士課程に進学した場合、これから何年の歳月を学術機関の中で過ごすかわからないが、それは決してスクーリングであってはならず、絶えず自分の究極的な関心事項に根ざしたラーニングであるべきだ。フローニンゲン:2018/9/24(月)19:48
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