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3164. 自らに問える教師


昨日、答えではなく、問いを与えることのできる教師について考えていたことを思い出す。他者に問いを与えるための要件とは何かについて少しばかり考えを巡らせていた。

問いを与えることに関して、確かにそうした態度を養っていくことができれば、他者に問いを与えることは可能になるように思えるが、単に態度の変容から行われる問いかけは得てして表面的なものになりがちなのではないだろうか。

そもそも、問いを与えることに関して重要なのは、問いを与える態度が変わることよりも、目の前にいる生徒の成長度合いを見極めるような眼を持つことであり、そうした眼を獲得しない限りは、仮に問いを投げかけられるようになったとしても、生徒の成長につながるような問いを投げかけることは難しいだろう。

教師の役割の一つは間違い無く、一人一人の生徒の発達プロセスに寄り添いながら、彼らが次の発達段階に移行していける手助けをすることにあるように思う。こうしたことを行うためには、生徒一人一人の発達プロセスを絶え間無く観察し、一人一人の成長度合いを見極めていく必要がある。

では、そうしたことを可能にするためには教師に何が必要なのかを考えていた。思うに、生徒一人一人の発達プロセスを見極め、各生徒が持つ多様な知性の多様な発達段階を見極める前に、教師そのものが自己の発達プロセスと各種知性の発達段階を理解しているかどうかがカギを握るように思う。

これは言い換えれば、教師の自己認識の問題とつながってくるだろう。生徒の発達プロセスを絶え間無く観察するためには、そもそもそうしたことを教師は自分に対して行えているのかを確認する必要があるだろう。

また、生徒に問いを与える前に、そもそも教師は自らに絶えず問いを投げかけているのかを問う必要があるように思う。ひょっとすると、対他者(interpersonal)と対自己(intrapersonal)の二つの領域において、発達プロセスを掴む力と問いを投げかける力は異なるものである可能性もあるが、いずれにせよ、教師の発達度合いが生徒に与える影響は多大なものであることを考慮すると、対自己における認識を深めていくことは必要だろう。

人に問うためには、自らに問えるかどうか。その点は教師のみならず、対人支援に携わる全ての者にとって非常に大切なことのように思う。

今日は日曜日であるが、普段と変わらない一日を過ごす。昨日ふと自分の一日を眺めてみたとき、結局、食事、トイレ、入浴などを除いた他の全ての時間を書斎の中で過ごしていることに気づいた。

書斎の中で行っていることは、探究活動、創造活動、協働プロジェクトに関する仕事に分けることができるが、それらはどれも自分にとってはライフワークであり、一生涯を通じた学びであることに変わりなく、そう考えると、一日のうち十数時間は学びの中に自分がいることに気づく。

欧州での二年間は、早朝の六時か七時から一日の学びを始め、夜の十時までそれを行うことを自然と続けていた。それは欧州での三年目の生活においても継続されるだろう。

来年は環境を変えたとしても、結局そこでも同じリズムで一日を形作っていくことになるだろう。自分が本当に絶え間ない学びの中にいることに改めて気づく。フローニンゲン:2018/9/23(日)07:45

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